樹上日記・ハールーンの約束



有理さんがシアトルへ行くことになったと聞いた日の放課後。
私は家に帰ると、ベッドに寝転がって、有理さんのことを考えた。
唯一、ハールーンのことを話すことができた人。
やはり私は有理さんが好きだと思ったし、会って話したいと思っていた。
もちろん、それには少しの時間を必要とするのかもしれないけれど。

そんなことを考えているうちに、いつのまにか眠ってしまったらしい。
目が覚めると、私は真っ暗な部屋の中にいた。
高校に入ってから、ときどき夕飯前に寝入ってしまう。
またやってしまったと、私が反省しながら電器のひもに手を伸ばした、そのとき。

あたりが急に明るくなった。
まぶしくて何も見えない。
でも、この感覚。前にもどこかで感じたことがある・・・。
そうだ、ハールーンに初めて会った、あのときだ。

私は期待してしまう自分の気持ちを抑えながら、何度かまばたきした。

「どうした、ジャニ。ひさしぶりだっていうのに。目に砂でも入ったのか?」
あいかわらず陽気な声がした。
「ハールーン!ハールーン!ハールーン!!」
私はハールーンに飛びついた。その勢いで、彼のほおにキスもした。
ハールーンは少しびっくりしていたけれど、すぐににこにこして言った。
「ジャニ、大きくなったな。髪も伸びているし、顔立ちも大人のようになって、
見違えたぞ」
「・・・なによ」
私はふくれた。私のキスに彼がほとんど動じなかったからだ。
「ハールーンこそ。きっとあちこちでたくさん冒険して、いろんな女の人から
接待されたんでしょうね。キスくらいでは動じないんだもの」
「な、なにを言うんだジャニ、そんなことはないぞ」
ハールーンは少し動揺した。私はおもしろくなくて、そっぽを向いた。
「おいおい、ジャニ。せっかく会えたんだ、機嫌を直してくれよ」
ハールーンがあんまり一生懸命にそう言うので、私は少し気をよくして
振り返った。
「いいわ。・・・ところで、ここはどこ?」
そこは木々の生い茂った山の中だった。
「さあな、おれも知らない。仲間と陸にあがって商売してたんだが、山賊に
襲われてな。さんざんに蹴散らしてやったんだが、深追いしすぎて仲間と
はぐれちまった」
「あなた、ねえ・・・」
私はあいかわらずなハールーンにため息をついた。
「でも、どうして私、またこっちの世界にこられたのかしら」
私がつぶやくと、ハールーンはにっと笑って、右手を上げた。
その手に握られていたのは、口の細長いつぼ。

「えーーーーー!!これって!!あのときのつぼ?どうしてハールーンが?」
私が叫ぶと、ハールーンは得意そうににやにや笑った。
「ある国で不思議なお宝を手に入れてな。お宝って言っても、おれたち
海賊には用のない代物だったんで、ラシードにやることにしたんだ。
そうしたら、ひさびさに会ったラシードの奴が『ジャニが魔神の世界に
帰ってしまった』って寂しそうにしていたからさ、試しにあんたと初めて会った
川辺に行ってみたんだ。そうしたら、ジャニ、あんたが埋めたはずのつぼが
落ちているじゃないか」

それはそのはずだ。あのとき、私は自分を外の世界に送り込んで、つまり、
自分をつぼの中に送り込んでシェーラザードに会った。
当然、つぼは置き去りにして行ってしまったんだから。

ハールーンは得意げに続けた。
「すぐにつぼを火にかけてみたんだが、ジャニが出てこないから諦めていたんだ。
なんとなくつぼは持ってきてしまったけどな。そうしたら、今になっていきなり
ジャニが飛び出してくるじゃないか」
ハールーンはそう言うと、おかしそうに笑った。
そうだった、私は彼のこの笑顔が好きだったんだ。
ひさしぶりに見る彼は、少し日焼けして大人びているけれど、やっぱり
ほれぼれするほどかっこいい。

「なあ、ジャニ。今さらと思うかもしれないけど、おれと一緒に旅をしないか?
おれはやっぱりあんたと一緒がいい。ときどき昔のことを思い出すんだが、
あんたと一緒に旅をしているときが、おれは一番幸せだった。そう思うんだ」
「なによ、勝手なことをいって」
私は憤慨した。
「あれだけ私が一緒に行きたいと言ったのに、おいていったのはあなた
じゃないの」
「勝手を言っているのはわかっている」
ハールーンは悪びれた様子もなくほほえんだ。
「あのときは、そう思ったんだ。ジャニの力に頼らず、一人でやっていこうと。
でも、力に頼るとか頼らないじゃなくて、ジャニと一緒がいいと思ってしまったんだ、
しかたがないだろう」
「なによ、あいかわらず偉そうなんだから」
そう言ってはみたものの、私はうれしくてたまらなかった。
この人は確かにハールーンだ。あんなに会いたかったハールーンが目の前に
いる。
しかも、今は私と一緒にいたいと言ってくれる。

「ジャニ、おれと一緒に行こう。最近は陸での冒険も多いし、海に出るときは
このつぼに入っていればいい。大丈夫だよ」

力強く笑うハールーンの胸に、私は飛び込んでしまいたくなった。でも。
こっちで冒険していたら、辰高の私は空白になる。
あっちの上田ひろみは無難に行動するだろう。でも。
私は、私自身でそれを経験したいのだ。
国語レポートだって書きたいし、有理さんに手紙を書いたり、ドリちゃんと
おしゃべりしたり、生徒会執行部の仕事だって、まだ終わったわけじゃない。
それに、江藤夏郎。
彼ともっと話をしてみたい。
だから・・・私はこっちで冒険するわけにはいかない。

私はハールーンに話した。
どこまでわかってもらえるかわからなかったけれど、向こうでのことを
思いつく限り話した。

ハールーンは黙って考え込んでいた。そして、確認するように言った。
「話はわかった。ジャニはこっちではなく、魔神の世界で暮らしたいと、
そういうことだな」
「うん」
私はもったいないという気持ちと戦いながらうなずいた。
こっちで魔神としての力を自由に使いながらハールーンと一緒に旅をする。
なんて魅力的なのだろう。まるで甘いケーキやパフェのよう。
でも、私は辰高での生活を選びたい。


私が神妙な面持ちでうなずくと、ハールーンはあっけらかんと笑った。
「なんだ、ならば、おれが魔神の世界に行けばいい!」
「はあ?」
私は驚いて間抜けな声を出してしまった。
ハールーンが「外」に向かっていることは知っていた。だから、あのとき
私も「外」に行こうと思ったのだ。
でも、彼が私の世界へ、辰高生である私の世界へくる?
そんなことがあるのだろうか?

「なんだ、ジャニ。おれはやるぞ!おれはジャニと一緒がいい。
だから、一緒にそのつぼの中に入る」
「えー?ハールーンが?」
は、入れるのかしら・・・。
だけど、ハールーンは自信満々で笑っている。
その笑顔を見ていたら、なんだか大丈夫な気がしてきた。
「本気?」
「おう!本気だとも!」
「なら言っておくけど、私は向こうではジャニという名前ではないの。
上田ひろみというのよ」
「ウエダヒロミ・・・よし、覚えたぞ!」
やけに元気なハールーンにあせって、私はさらに釘をさした。
「それと、私は向こうではジンの力なんて使えない普通の女の子なんだから。
それでもいいのね?」
すると。ハールーンは問題ないとまた笑った。
「おれはあんたの力がほしいんじゃないよ。ただあんたと一緒にいたいんだ。
さっきからそう言っているだろう」
「えっと、それから、あたしが向こうでは上田ひろみであるように、あなたも
向こうでは王子さまじゃない、また違った人間になるかもしれないわよ?
いいの?」
「そんなことは願ったり叶ったりだ。王子の身分などとうに捨てている」
ハールーンは新しい世界に行くのが本当にうれしいらしく、はしゃいでいる。

「それとね・・・」
「まだあるのか」
ハールーンはいいかげんうんざりした顔になった。
「注意事項はもういいから早く行こうぜ」
でも、私は首を振って言った。
江藤夏郎の顔が頭に浮かんだ。
「私、気になる人がいるの。その人のことを好きになってしまったら・・・
もしかしたら、ハールーンと一緒に冒険はできないかもしれない」
「できるさ」
ハールーンは妙に自信たっぷりに笑った。
ああ、この笑顔だ。私の好きな、ハールーンの笑顔。
「あんたはおれと冒険をする。それはもう決まっているんだよ。
だって、あんたはおれの幸運だろう?」
ハールーンはそう言って笑いながら私の手をとった。
あいかわらず強引なんだから。そう思いながら、でも私も笑う。
そして、私たちは一緒につぼの中に飛び込んだ。





気が付くと、私はベッドの上にいて、ベッドのわきに置いたカバンの中の
携帯が鳴っていた。
この着メロは、生徒会関係者だ。
あわててカバンをひっくり返して携帯を探し出し、折りたたみの携帯を開く。
画面に浮かぶ文字は『江藤夏郎』。

私はゆっくりとほほえんで、通話ボタンを押した。





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はい、なんだかやっちゃいました、樹上日記。
荻原さんは通勤電車の中でアイディアをお考えになるそうですが、
この話は教習所から帰るバスの中で、どうしてもハールーンが書きたくなって、
書いてみました。
(つぼに入るという設定はラジオドラマからお借りしています)