■ 白鳥の小部屋 ■

象子の日記 はじまりのとき(白鳥異伝終了後) 洗濯を終えた象子は、髪をかきあげながら空を見上げた。 空には大きな入道雲が湧き出すように浮かんでいた。 この頃だいぶ暑くなってきたし、もうすぐ夏になるのだろう。 象子は夏が嫌いではなかった。 三野の守の宮の寒さはひどく体にこたえたので、暑くなるのをいつも心待ちに していたものだ。 月のものが重い象子には、体が冷えることはとてもつらかった。 遠子と菅流はどうしているだろう、と象子は思った。 今頃何をしているのだろう。 小倶那を殺すと言っていたけれど、そんなことがあの遠子にできたのだろうか。 遠子のことを考えると、象子の心はいつも三野に引き戻された。 山深き三野。 つらい思い出もたくさんある、ふるさと。 幼い頃からいつもいつも姉の明姫と比べられた。 明姫の方が象子よりも美しい。 明姫の方が象子よりも気立てがいい。 明姫の方が象子よりも巫女として優秀だ。 明姫の方が、明姫の方が。 いつも皆にそういわれ続けて育ってきた。 どんなに象子が努力しても、みな口を開けば「明姫の方が」とそればかり言う。 そんな風に言われて育ってきて、気立てのいい娘になどなれるはずがないのにと象子は いつも思っていた。 結局、気立てのいい娘は皆から優しくされ大事にされるから気立てもますますよくなるのだ。 姉のことは好きだったが、比べられる度にどす黒い気持ちが胸に広がっていくのは止め ようがなかった。 また、同じことをしていても、明姫はほめられるが、象子はほめられない。 同じことをしていても、明姫はしかられないが、象子はしかられる。 そんなときは、姉に対し、不愉快だと思うこともしばしばだった。 この人がいなければどんなに心安らかに生きられただろう、と思うことも何度もあった。 だが、明姫は長姫として大巫女様のあとを継いでくれる。 守のお宮にこもって暮らすなどまっぴらだと思っていた象子は、その点は姉に感謝をし、 同情もしていた。 自分も好きでもない男と結婚させられるさだめではあったが、巫女になるよりはましだと 思っていた。 だが、その姉は、さだめを受けて、大王のもとへ嫁した。 そこで全てが変わった。 いままで、子孫を残す役目として育てられていた象子が、急遽大巫女様のあとを継ぐべく 修行に入ることになった。 わけがわからない。 昨日までは将来夫となる人を大事にして子どもを産んで育てて、それがさだめだと 言われていたのに、姉のために、象子のさだめは正反対になった。 結婚しないで巫女になれと。 声を殺して何度泣いたかわからない。 わたくしは何なの? 何のために生きているの? 姉の代わりをするために生きているのではないはずだと思いたかったが、象子の 現実はどう考えてもそうだとしか思えないものだった。 姉が大碓皇子と三野に戻ってきてから、その思いはますます強くなった。 象子と違って、自由気ままに育てられてきた遠子が象子に文句を言う。 象子は月のものが重いので、その時期には貧血とめまいと吐き気で倒れそうになる のだが、こんな非常事態だからと無理をして働いていたのに、象子がちょっと休んで いると、遠子は象子がさぼっていると目くじらを立てるのだった。 反論しようかと思ったが、まだ女になっていない遠子にわかるはずがない。 だが、畑を作りに行ったはずの遠子がくわにもたれてぼんやりとしているのを見たとき、 象子はかっとなった。 というのも、遠子はずいぶんえらそうなことを言って出て行ったのだ。 「みんなには食料がもっと必要だもの、私が畑を作るわ」 と。 そう言って意気揚々と出て行ったのに、人の見ていないところではぼんやりしている。 象子が遠子にさぼっていると言うと、遠子は象子の方こそそうだと言った。 けんかになりそうになったとき、明姫が現れた。 自ら三野に戦をもたらした明姫は、遠子をかばい、象子に争いをやめろと言った。 その言葉をきいて、象子は泣きたいような笑いたいような不思議な気持ちになった。 この人は何を言っているのだろう。 確かに、明姫の言うことは正しい。 だが、その言葉を言う資格が明姫にあるのだろうか。 自らの恋のために、故郷の皆を戦に巻き込んだ明姫に、争いをやめろという資格が あるのだろうか。 言う資格がない者が言う正論は、滑稽で、馬鹿馬鹿しく、腹立たしい。 争いはいけない。 そんなことはだれだってわかっている。 だが、争いを巻き起こした者が、他人にその言葉を言う資格はない。 象子は明姫に言った。 いさめられるすじあいはない、と。 すると、明姫は遠子をかばい、象子を責めた。 象子は遠子の気持ちがわかっていないと。 人の心の痛みがわからないと。 象子は自分以上に大事な人がいないからと。 それは、明姫自身は大事な大碓皇子がいるので人の心の痛みがわかると語っている のに等しかった。 象子はもう少しで声をたてて笑うところだった。 だが、笑い声は出ず、代わりに出てきたのは涙だった。 熱い涙がじわりとこみあげてくるのを感じた。 遠子が小倶那を心配して、そのために使者と一緒に行きたがったことなど、象子には たいして考えなくてもわかることだった。 だが、遠子は自分の気持ちだけで行動してしまう。 遠子が使者についていくことは、使者にも迷惑だし、遠子自身も危険だ。 遠子の両親も心配するだろうし、一使者についていくよりも、ここで待っていた方が 情報も入る。 それに、遠子にだってこの砦の中で与えられた役割があるのだ。 遠子がいなくなれば、だれかがその仕事をやらねばならない。 みなが極限まで疲れている中、それは非常に厳しいことだ。 そんないろんなことを瞬時に考えて、象子は遠子を止めたのだった。 もっとも、気が立っていたせいで、言葉はきつくなってしまったが。 象子には、明姫こそ人の痛みがわかっていないと思えた。 明姫はみなに大事にされて育ったので、あまり負の感情を持たずに生きてきたに違いない。 そんな明姫に、人の気持ちがわかるとは到底思えなかった。 もし明姫が人の痛みがわかるというのなら、象子の痛みに気がつかないわけがない。 明姫と比べられて、けなされて、生まれてからずっと明姫の影のように生きてきて。 明姫がいなくなった後は、明姫の役目を押し付けられて。 明姫がもし人の痛みがわかる人だというのなら、どんな状況でも、象子に対して、 「あなたは人の心の痛みに気づかない」 などと言えるはずがなかった。 だが、明姫はそう言った。 そう言って、遠子をかばった。 遠子は明るく、元気で、誰にでも好かれる。 明姫も、象子よりも遠子が好きなのだろう。 いつだって、姉は遠子の味方だった。 象子は泣きながら駆け出した。 「わたくしにだって痛みはあるわ。でも、わたくしの心の痛みなどだれも気にかけては くれないんでしょう」 明姫とまともに言葉を交わしたのはそれが最後だった。 明姫は大碓皇子の後を追って死んだ。 弱い人だったのだ、と象子は思った。 みなは明姫は可憐だが芯の強い人と言っていたが、姉は弱かったのだ。 姉が強かったのなら、自ら死んだりしないはずだ。 姉への思いは一言では言い表せない。 好きだったし、嫌いだった。 今でもよくわからない。 遠子とは、一緒に旅をするうちにだいぶ仲良くなった。 遠子は、象子には信じられないほど、まっすぐな人間だ。 そのまっすぐさが幼く、他人に迷惑をかけることもあるが、どこまでも純粋にまっすぐ なのだった。 だからこそ、周りの人間をひきつけずにおかないのだろう。 象子も、今では遠子のまっすぐさが嫌いではなかった。 長年比べられてひねくれて育ってしまった象子には決してもてないもの。 自分もそうなりたいわけではないけれど、憧れるもの。 そんなものを、遠子の中にいつも感じていた。 菅流はどうしただろう、と象子は思った。 菅流は飄々とした軽い男のように見えるが、実は深い思いを持つ人だと、遠子を探し回る 菅流を見て知った。 両親も早くに死んでしまったと言うし、過去に大事な人をなくしたこともあるようだ。 人とは違う、良くも悪くも際立った容姿も、彼の人格形成に一役買ったのだろう。 彼はまっすぐではない。 明るく、人をひきつけるけれど、ただのまっすぐではないと象子は感じていた。 菅流は遠子にひかれるだろう、と象子は思った。 どこまでもまっすぐな遠子は、まっすぐでないものにとって不快な部分もあるが、同時に 憧れでもある。 遠子の面倒をみるようなことを言っていたが、菅流が遠子に並々ならぬ気持ちを持って いることくらいは象子にも感じ取れた。 その気持ちがどんなものかはわからなかったが、どちらにしろ、菅流にとって大事なのは、 象子ではなく遠子なのだろう。 遠子の居場所がわからないと言って、数回、象子のところに手がかりになるような話は ないかとききにきたが、それ以来音沙汰がない。 もしかしたら、遠子を見つけて、どこか遠い国で仲良く暮らしているのかもしれない。 象子は風を右ほほで受け止めながら目を閉じた。 それでもかまわない。 胸は痛むけれど、菅流にとってそれが幸せなのだろうから。 だが、そう考えると心は沈み、象子は小さくつぶやいた。 「菅流のばか」 「だれがばかだって?」 あまりに都合よく菅流の声が聴こえたので、象子は幻聴かと思った。 だが、目を開けると、菅流がそこに立っていた。 「どうしたの?」 「どうしたのって・・・帰ってきたんだ」 菅流はそう言って、にっこり笑った。 なつかしいほど温かい、菅流の笑顔だった。 「一人で帰ってきたの?」 「ああ、そうだよ」 菅流があっさりうなずくので、象子は戸惑った。 「遠子は?あの子はどうしたの?」 象子が尋ねると、菅流は懐かしそうに、そして少し寂しそうに微笑んだ。 「遠子は遠い日高見の国で、小倶那と一緒に暮らしているよ」 「小倶那と一緒ですって?」 象子は息を吸いこんだ。 「では、遠子は小倶那を取り戻したのね」 「ああ」 「そして、あなたは遠子にふられてすごすごと帰ってきたというわけ?」 「当たらずとも遠からず、というところかな」 菅流はいたずらっぽく笑った。 「確かに、一時は遠子のことを愛しいと思ったんだ。小倶那が遠子のところに戻ら なければ、もしかしたらおれはずっと遠子と一緒にいたかもしれない」 菅流は思い出すように遠くを見た。 「でも、遠子と並んだ小倶那を見て・・・なんというのかな、本当にぴったりだと、 そう感じてね。そう思ったら、おれにもぴったりの女がいたことを思い出した」 そう言うと、菅流は象子を見て、意味ありげに微笑んだ。 「おれはこう見えてひねくれているからな。おれには遠子みたいなやつより、おまえ くらいひねくれている女の方がぴったりだと思うんだ」 「なにそれ」 象子は眉をしかめた。 ひねくれているからぴったりだなんて、意味がわからない。 菅流は苦笑しながら、象子の頭にぽんと手を置いた。 「だから、象子が好きだと言っているんだよ」 「・・・信じられない」 ひねくれているという話から、何をどうしたら好きだということになるのかわからなかった。 疑わしげな顔をした象子に、菅流は少しあわてたように弁解を始めた。 「もともと、象子を初めて見たときからべっぴんだとは思っていたんだ。ただ、象子は 変に気取っていただろう。だからこの子とはあまり気が合わないなと思ったんだ。 でも、取り繕うのをやめた象子を見て、話をして、象子のひねくれ方がかわいいなと 思った。そう思ったら、いつの間にか好きになっていた」 「・・・調子がいいのね」 象子は強がってそう言ったが声は震えていた。 これは夢なのだろうか。 菅流が象子のことを好きだと言っている。 象子の、ひねくれたところがかわいいと。 菅流がかわいいという、象子のひねくれた性格は、長年明姫や遠子と比べられ続けて 形成されてきたものだ。 三野に生まれた女のさだめへの葛藤で生まれてきたものだ。 そんな象子を、菅流が好きだと言ってくれている。 (わたくしのいままでは無駄ではなかったのだろうか。全ては今のこの瞬間につながる ためにあったのだろうか) いつの間にか涙が出てきたので、象子は何も言わずに菅流の胸に自分の顔を押し付けた。 菅流の広い胸はあたたかかった。 菅流の長い腕が象子を抱きしめると、今まで生きてきて一度も感じたことがないくらい 安らかな気持ちになった。 「・・・わたくしでいいの? 豊葦原一の嫁とりをすると言っていたのに」 象子がそう言うと、菅流は象子のほほに口づけながら、耳元でささやいた。 「ああ。豊葦原を西から東まで見つくしたが、おまえ以上の女はいなかった」 そして、菅流は象子のほほにもうひとつ口づけると、自信ありげに微笑んだのだった。                                 (終)    * あ と が き * はい、やっと書けました、菅流象子(すがきさ)話です。 私は「すがきさ」も好きなのですが、いつも「すがとこ」「すがとこ」言い過ぎてあまり 信じてもらえません。 「菅流→遠子」だけど、「小倶那v遠子」になって、最終的に「菅流v象子」というのが 私の理想です♪ (どのカップルも大好きです♪) 遠子は魅力的な子だと思うので、菅流も一度は遠子を好きになると思うのです。 でも、遠子には小倶那がいるし、相性を考えても、最終的に、菅流は象子を好きに なるだろうなと思います。 少女漫画でもない限り、初恋の人と付き合って結婚しましたなんてまずないですし。 好きになったら振り向いてもらえなくてもずっとその人を好きでいなくてはならないと いうこともないですし。 一時の恋愛感情というのもありますよね。 恋だが愛だか憧れだか同情だか友情だか区別のつきにくい感情だってあるだろうし。 なので、そういうこともわかった今だからこそ書けるすがきさです。 ずっと書きたかったので書けてよかったです。 遠子と象子というのは対照的な子ですよね。 風神なら糸世と万寿、西魔女ならフィリエルとアデイルでしょうか。 荻原先生はこういう対照的な女の子をお書きになるのがお好きなのでしょうね。 象子も万寿もアデイルも、みんなお姫様なのに、その育ち方ゆえに天真爛漫では ないのですよね。 一方、遠子や糸世やフィリエルは、みなに愛されて、まっすぐに純粋に育っている。 アデイルが象子や万寿と違うところは、やはりユーシス様の存在だと思います。 ユーシスお兄様のような人がそばにいてくれたからこそ、アデイルはアデイルに なれたのだと思います。 もしユーシス様がいなければ、アデイルも象子や万寿のようになっていたかもしれません。 ユーシス様に似たところがある菅流さんが、象子のところに帰ってきてくれますように。 象子の心を救ってくれますように。 そして、象子も菅流の心の支えとなりますように。 そんな気持ちをこめて書きました。 駄文を読んでくださり、ありがとうございました!                          ぴっころ 拝     2006.4.22 白鳥異伝ページへ あたそのやメインページへ