苑上の日記24・病
at 2001 11/05 14:59 編集

今日、洗濯をしていたとき、冷たい川の水がやけに気持ち良く感じるのでおかしいなと思っていたら、立ち上がった瞬間その場に
しゃがみこんでしまいました。
美郷さんがとんできて、わたくしの額に手を当てました。
「鈴ちゃん、あなた熱があるわよ!」
と言われて、美郷さんにお屋形まで連れて帰ってもらいました。

すぐに部屋に布団を敷いてもらって、横になりました。
美郷さんが布をぬらして頭を冷やしてくれました。
「大丈夫よ、すぐによくなるわ」
と優しい声で言われて、とてもほっとしました。
千種さんもときどき様子を見にきてくれて、おかゆを持ってきてくれたりしました。

夕方、阿高が帰ってきてからは、阿高がつきっきりで看病してくれました。
阿高は何度も何度も、頭を冷やす水を汲みにいってくれました。
わたくしのことをとても心配してくれているようで、なんだか申し訳なくなりました。

これからはみんなに心配をかけないように、もっと体に気をつけたいと思いました。 



阿高の日記24・病
at 2001 11/05 15:12 編集

今日、仕事から帰ると、いつもは飛び出してきて出迎えてくれる鈴が出てこなかった。

屋形に入ってみると、美郷姉や千種が、鈴が熱を出したのだと言って、大騒ぎしていた。

部屋に入ると、鈴が一人で寝ており、おれに気づいて目をあけた。
「あ、阿高・・・お帰りなさい」
そう言う声も、いつもとはぜんぜん違って、つらそうだった。

おれはひたすら頭を冷やす水を汲みかえ、布を鈴の額にあてた。
美郷姉が代わってくれると言ったが断った。

冷たい水でぬらした布をあててやると、鈴の苦しそうな表情が少しは和らぐ気がして、せっせと水を汲み替えた。

疲れていても、鈴がいれば元気になれた。
でも、鈴が元気じゃないと、何も手につかない。


鈴が早くよくなるといいと思った・・・。
 



苑上の日記25・看病
at 2001 11/08 00:57 編集

今朝、目が覚めると、体がずいぶん楽になっていました。
熱も下がった感じでほっとしました。

ゆっくり頭を動かして横を見ると、わたくしの枕もとに阿高がうつぶせで眠っていました。
そういえば、夜中に何度も阿高が額を冷やしてくれたような覚えがありました。

一晩中看病してくれたのだと思うと、阿高が愛しくてたまらなくなって、眠っている阿高のほおにそっと接吻しました。

いつか阿高が病気になったときには、わたくしも一生懸命看病しようと思いました。 



阿高の日記25・看病
at 2001 11/08 01:12 編集

今朝、目が覚めたら、鈴がもう起きていた。
熱は下がったらしい。
頭を冷やしてくれてありがとうとお礼を言われた。
鈴がにこにこしていて安心した。

美郷姉は、鈴は竹芝にきてからずっとがんばっていたから疲れが出たのだろうと言っていた。

念のため、今日も寝ておくように鈴に言った。

これからはもっと気をつけて鈴の様子を見ていてやろうと思った。
ともあれ、鈴が少し元気になって本当によかった・・・。 



苑上の日記26・見舞い
at 2001 11/12 11:11 編集

今日、やっと庭におりることができるようになりました。
都から竹芝にくる道中も含めて、疲れがたまっていて、そのせいで熱が出てしまったのだろうと美郷さんに言われました。
でも、もうすっかりよくなりました。

1日ぶりに庭に出ると、クロとちびクロがわたくしの足元に走ってきました。
竹芝にきてからずっと、えさをあげるのはわたくしの仕事だったのに、昨日と一昨日は美郷さんにお願いしたので、2匹とも不思議
がっていたようでした。
クロがたくさんわたくしのほおをなめてくれました。
ちびクロも、大丈夫か?というようにわたくしの手を少しなめてくれました。
わたくしは2匹の頭やおなかをいっぱいなでてあげました。
わたくしはクロとちびクロが大好きです。


夕方帰ってきた阿高が、
「これ。見舞いの品・・・になるかわからないけど」
と言って、小さな花束とみかんをくれました。
とってもうれしかったです。
 



阿高の日記26・見舞い
at 2001 11/15 00:50 編集

今日、鈴の見舞いの品にしようと、花を摘み、みかんをもいで持って帰った。
こんなもので見舞いになるのか不安だったが、鈴は思いのほか喜んでくれた。

鈴がみかんを食べるというので、皮をむいて渡してやった。
鈴はみかんを半分に割り、おれに返してくれた。

鈴はみかんをひと房口にいれ、
「甘くておいしい」
とにこにこした。
おれが、
「うまいか、よかったな」
と鈴の頭をなでると、鈴は、
「阿高も」
と言って、おれの口の前にみかんをひと房差し出した。
おれがつられて口を開けると、鈴はおれの口の中にみかんを入れた。
その瞬間、おれはついふざけたくなって、鈴の指を軽く噛んだ。

「きゃっ」
鈴は驚いて手をひっこめた。
おれが笑うと、鈴は、
「わたくしだって」
と言って、小さな口を開けて見せた。
「阿高、みかんをいれてちょうだい」
おれはすばやく鈴の口にみかんをひと房放り込んだ。
鈴の歯が空を噛んだ。

「もう阿高ったら、早すぎるわ。もう一度お願いね」
そう言って、鈴はまた口を開ける。
今度はゆっくりみかんを入れてやると、鈴はおれの指を軽く噛んだ。
わかっていたことだったのに、おれが動揺すると、鈴は口を離してからおかしそうにくすくす笑った。

「阿高、みかんのお味はどう?」
鈴にきかれて、先ほど口に入れられたみかんがそのままだったことに気づいた。
なんだか生ぬるくなったみかんを思い切って噛んだ。
思ったほど甘くはなく、少しすっぱかった。
「ね、おいしいでしょう?」
鈴に問われて思わずうなずいた。

また今度、みかんをもいでこようと思った・・・。

 



番外・真守の日記・都から来た娘(みいゆさまリクエスト)
at 2001 11/20 00:12 編集

最近、毎日毎日千種の両親に愚痴をきかされる。
叔父さんは比較的静かに考え込んでいるが、おばさんが泣き喚くので困る。
「千種、あの子、元気にしているのかしら。竹芝でいじめられていないかしら。ああ、どうしてこんなことに・・・」
おれが何度大丈夫だと言っても聞きはしない。

千種がさらわれた次の日、日下部のみんなで竹芝の屋形に千種を返せと乗り込んだ。
千種が竹芝の藤太にさらわれたからだ。
だが、千種が自分の意思だと言ったので連れて帰ることはできなかった。

おれは竹芝のやつらは嫌いだけれど(特に二連。女たちの人気を独り占めするのは許せん)、藤太は千種にほれているから
大事にするだろうということぐらいはわかる。
だが、叔母さんにはそんな理屈は通用しない。

「なんで真守にそんなことがわかるのよ!その目で見てきたわけでもないのに!」
とわめく。
それで、つい、
「なら見てきてやるよ」
と言ってしまった。

そうして、日下部と竹芝の境の草原まで来たものの、おれは困っていた。
日下部のおれが、のこのこ竹芝の屋形に様子を伺いに行けるわけがない。

そんなとき、草原の向こうから女が一人歩いてくるのが見えた。
犬を2匹連れていた。
遠めにも、その女がひどく色が白いのが見てとれた。
それで思い出した。
千種を取り返しにいったとき、竹芝の屋形に、阿高が連れてきたという色の白い娘がいたことを。
あのときはそれどころじゃなくて、どんな娘かよく見なかったけれど、とにかく色がとんでもなく白い娘だったことは確かだ。

おれはあの娘から千種の様子を聞こうと思い、娘を待ち伏せた。

近づいてきた娘に声をかけると、彼女は驚いたようにおれを見た。
その間に、おれも初めて彼女の顔をよく見ることができた。

抜けるように色が白い。
千種もこの辺りでは色が白い方だが、この娘は本当に透き通るような白さをしていた。
顔立ちも、見たことがないくらい上品で整っている。
娘は黒目がちな瞳を見開いて、おれを見ていた。

「おれ、千種の従兄弟の真守っていうんだ」
おれが名乗ると、娘はしばらく考え込んでいたが、やがて少し鋭い口調で言った。
「真守って・・・もしかして阿高を矢で射ようとした人ね」

おれはあせっていろいろ弁解した。
もう阿高たちには絶対危害を加えないと約束すると、娘はやっと表情を和らげた。

おれが千種の様子を聞くと、娘は千種が元気で竹芝で幸せに暮らしていると教えてくれた。

彼女はなんだか不思議な娘だった。
話していると、本当に千種は大丈夫なのだと安心できた。
こんな子が近くにいるのなら、千種は大丈夫だと思えた。
うれしくて、思わず娘の頭をなでた。

おれがもっと話そうとしたとき、阿高が馬に乗ってやってきた。
どうしてわかったのだろう。
阿高は激怒していて、おれに向かって、
「汚い手で鈴に触るな!」
と怒鳴った。

娘は鈴という名前らしかった。
おれは鈴に別れを告げると、すばやく駆け出した。
阿高が追ってくるかと思ったが、追ってこなかった。
ちらりと後ろを振り返ると、鈴が阿高の袖をひいて引き止めているのが見えた。


日下部に戻って、さっそく叔父さんと叔母さんに報告に行った。
おれが千種は大丈夫だとはっきり断言したので、叔母さんも少しは安心したらしい。泣き喚くのをやめたので、おれもほっとした。

家に帰って、寝転びながら、鈴というあの娘のことを考えた。
あんな娘、初めて見た。
千種のことを話すときに少し笑った顔がかわいかった。
あの子は阿高の嫁なのだろうか。
でも、まだ嫁という雰囲気ではなかった。
おそらく阿高の恋人なのだろう。
都から連れて帰ったという噂だから、彼女はよほどの決意で武蔵に来たのに違いない。

「また会えるかな・・・」
思わずつぶやいた。
なぜか気になる娘だった。
あの娘より美人というだけなら、そんな女は日下部にだってたくさんいるけれど。

この辺りの女をみんな虜にしているような阿高が、あの娘を選んで連れて帰ったわけが、なんとなくわかる気がした・・・。
 



番外・千種の日記・決意(すずかさまリクエスト)
at 2001 11/23 19:43 編集

今日は国司さまに織りあがった布を届けに行く日だった。


日下部にいたころは、わたしは、巫女に出仕するか、国司さまのもとで機を織るかのどちらかだと、みなに言われていた。
そんなわたしの生活が、藤太の出現で一変した。
初めての出会い。
あの有名な竹芝の二連のうち、女の子泣かせで有名な方だとすぐにわかった。
けがをしていたから手当てはしてあげたけれど、まさか好きになるとは思わなかった。
それからたびたび藤太が阿高といっしょに訪ねてきたけれど、からかわれているのだと思った。
「あなたのような男は大嫌い」
と何度も言った。
でも、藤太のことが気になってたまらなかった。
気づいたときには好きになってしまっていた。

藤太が阿高を探しに行ってしまってからは、いろいろあった。
巫女の出仕も国司の誘いも断りながら、毎日機を織った。藤太の気配を糸の先に感じようとした。
彼は阿高のことに必死で、わたしを思い出してもくれないときも多かったけれど、藤太がわたしを大事に思っていてくれることは
伝わってきた。
藤太が大怪我をしたときには必死だった。
とぎれそうな彼の命をこの世につなぎとめておくために、泣きながら、けれども休まずに、一心不乱に機を織った。

そして、藤太は帰ってきた。
女神さまの言葉どおり、わたしのもとに帰ってきてくれた。

日下部から竹芝へさらいだされて、いろいろ大変なこともあったけれど、藤太をひたすら待ち続けた日々に比べれば、今は本当に
幸せだと思う。
すぐそばに藤太がいて、会いたいときに藤太に会える、こんな幸せはないと思う。


国司さまに届ける布を準備していると、鈴ちゃんが自分も一緒に行くと言ってくれた。
申し訳ないので一度は断ったのだけれど、美郷さんが二人で行ったほうが道中楽しいし安心だとおっしゃるので、鈴ちゃんと一緒に
行くことになった。

二人で布の包みをひとつずつ背負って歩いた。
今日は、ぽかぽかとした小春日和で、散歩のように楽しく歩くことができた。
鈴ちゃんとこんなに長いこと話したのは初めてだったけれど、すごく自然にいくらでも話せた。
わたしの勝手な思い込みかもしれないけれど、鈴ちゃんとはなんだかすごく気が合う気がした。
わたしがそう言うと、鈴ちゃんも、
「わたくしもちょうど同じことを考えていたんです」
と驚いていた。

わたしと鈴ちゃんは、身分はぜんぜん違ったけれど、育った環境には少し似通ったところがあるようだった。
幼い頃からあまりに外に出してもらえなかったという不満などは、二人で意気投合してしまった。
二人でたくさん笑った。


国府につくと、従兄弟の真守が立っていた。
「よう、千種に鈴。布を届けにきたんだろう。国司さまにきいて待ってたんだ」
「またあんた?」
わたしがあきれたように言うと、真守はにやりとした。
「なんだよ、ごあいさつだな」
「こないだも国府に来ていたらしいじゃないの。あのあと阿高が不機嫌で困ったのよ」
わたしが文句を言うと、真守はくすくす笑った。
「阿高が不機嫌?そりゃうれしいな」
「真守さん、ひどい」
鈴ちゃんの抗議の声に、真守は目を細めた。
「阿高たちに危害を加えないとは約束したが、不機嫌にしないなんて約束はしてないぜ」
「もうあんたは、減らず口ばかりたたいて」
わたしが真守のほおを軽くぶつと、真守は、
「なつかしいな、千種のびんた」
と言ってまた笑った。


鈴ちゃんが気をきかせてくれて、先に布を届けてきてくれるというので頼んだ。
鈴ちゃんがいなくなると、真守は少し真剣な顔になった。
「なあ、千種、一度日下部に顔見せにこいよ」
「今はだめ」
「なんで」
「連れ戻されたらいやだもの」
「国司が認めてんだぜ?そんなことしないって」
「あんたはうちの母さんのこと知ってるでしょう?母さんならわたしを連れ戻そうとするかもしれない。国司が認めたとか、そんな
理屈の通じる人じゃないのよ」
「・・・まあ、それはそうかもしれないけど、でも・・・」
「正式に藤太の嫁になって子供でもできたら里帰りするかもしれないけれど、今は無理。あんたにも迷惑かけてると思うけど、
頼むわね」
「・・・わかったよ」
真守は少し不満そうではあったけれど、深くうなずいた。

「ところでさ」
真守の表情が少し変わった。
「正式な嫁といえばさ、あの子はどうなのさ?」
「あの子って?」
「・・・鈴だよ。あの子って、阿高の嫁なのか?」
わたしは真守の意図がわからないままに答えた。
「私と同じよ。まだ正式な嫁ではないけれど。なんでそんなこときくのよ」
「いや、べつに」
真守は少し照れたように微笑んだ。
その瞬間、わたしは真守の気持ちに気づいてしまった。
「まさか、あんた鈴ちゃんのこと好きなの・・・」
「よくわかんないけど、なんか気になるんだよ」

わたしは体中の血の気が引く思いだった。
「や、やめてちょうだい!お願いだから!あんた日下部ではけっこうもてるじゃないの!女の子なんてよりどりみどりでしょ!
頼むから鈴ちゃんはやめてちょうだい、一生のお願いよ!」

鈴ちゃんが真守になびくことは万に一つもありえないとは思ったけれど、阿高がどんなに激怒するか、それを考えただけで
おそろしかった。
「なにあせってるんだよ、千種」
おかしそうに笑った真守の顔が、思った以上に見目がよいのでくらくらした。
せめて二目と見られぬような顔なら、阿高だってあんなに真守を意識しないだろうに、あいにく真守は日下部では一、二を争う
美丈夫なのだ。

「とにかく、鈴ちゃんには近づかないでちょうだい!」
そう言い放つと、わたしは踵を返し、鈴ちゃんを迎えに国府の建物に向かった。
背中から、
「おーい、千種。悪いけど約束はできないぞー」
という真守の明るい声が追いかけてきて、思わずその場にしゃがみこみそうになった。

鈴ちゃんを守ろう、と思った。
真守を近づけさせないようにしなくては。

そして、阿高にもっとはっぱをかけて、鈴ちゃんの心を一時たりともはなさないように、しっかりつかまえておいてもらわなくては。

帰ったらさっそく藤太に相談しようと思った。
あの人は女の子の心をつかむことだけはいやになるほど得意なのだから・・・。


 



阿高の日記27・弓の稽古
at 2001 11/24 16:49 編集

今日、畑仕事が終わってから、庭で弓の稽古をした。
鈴が見たいと言うので、美郷姉に暖かい綿入りの着物を着せてもらってから庭に連れ出した。


弓を射るのは好きだ。
一瞬の集中、あの緊張感がたまらない。
そして的に当たったときの爽快感。
だからおれも藤太も弓を射るのが好きだ。

ちょっとした弓の稽古なら屋形の庭で十分できる。
だから、幼い頃から藤太と一緒に稽古に励んできたのだけれど。

今日はいつもと勝手が違った。
鈴がおれを見ている。
今まで人の視線なんてぜんぜん気にならなかったのに。
鈴の視線は気になってしまう。

弓の準備をしながら、おれはなんだか無性に緊張していた。
すぐそばでは、鈴が期待に満ちた目でおれを見ている。
鈴にいいところを見せたいと思った。
前に騎射対決をしたときの真守の気持ちが少しわかった。
あいつもだれかにいいところを見せたかったのだろうか。


このままでは的を外してしまいそうな気がした。
おれは一度弓を構えたものの、また下におろした。

「・・・鈴」
「なあに?」
鈴は縁側に腰を下ろし、弓を下ろしてしまったおれを不思議そうに見ていた。
「もしおれが的を外したら、鈴はどう思う?」
「・・・それは残念だけど、でも」
おれは鈴の言葉を遮ってさらに言った。
「やっぱりかっこわるいよな」

おれが黙り込むと、鈴は縁側から立ち上がった。
そして、つかつかとおれの前まで歩いてくると、おれのほおに軽く手のひらを当てた。
ぺち、と小さな音がした。痛みは全くなかった。

おれがどういうことかと困惑していると、鈴は怒ったように言った。
「阿高は自分がかっこいいから、わたくしが阿高のことを好きになったと思っているの?そんなわけないでしょう。わたくしは阿高の
かっこわるいところも、ちょっといじわるなところも、ぼけたところも、全部知って、それで阿高を好きになったのよ」
そして、にっこりして言った。
「かっこいい阿高はもちろん大好きだけれど、かっこわるい阿高だって、わたくしは大好きなの」

鈴の言葉を聞いた瞬間、胸が熱くなった。
あやうく涙が出そうになった。
おれはその瞬間、鈴と、この世に鈴を送り出し、鈴を育ててくれたすべての人に感謝した。

おれは鈴をめいっぱい抱きしめた。
やっぱり鈴は最高だ。



おれは鈴を放し、頭をなでた。
そして的に向き直ると弓を構え、軽く引き絞り、矢を放った。
矢は的の中央に刺さった。

「阿高、すごい!余裕じゃないの!」
鈴がはしゃいで飛びついてきた。
あんまり鈴がうれしそうなので、おれまでうれしくなった。
もう緊張なんてしない。
どんなおれでも鈴は好きでいてくれるのだから、失敗を恐れる必要なんてないのだ。


弓を片付けに納屋に向かうと、にやにやしている豊高兄に捕まった。
「やるな、阿ー坊。全部見てたよ」
「なんだよ」
おれがふてくされると、豊高兄はうんうんと一人で納得しながらうなずいた。
「苦悩するふりをしておいて、実際矢を放てば的の中央にぐさり。鈴ちゃんの心をわしづかみ作戦、大成功だな」
「なんだそれ」
「あれ?違うのか?千種ちゃんが騒いでた、鈴ちゃんの心わしづかみ作戦じゃないの?」
「そんなの知らないよ」
おれは答えた。
でも、今日、弓の練習をするようにすすめてきたのは藤太と千種だった・・・。
豊高兄にもっと追及しようと思ったが、さっさと逃げられてしまった。


とにかく、鈴が喜んでくれてよかった。
鈴の言葉が、すごくうれしかった・・・。



 



苑上の日記27・弓の稽古
at 2001 11/28 06:14 編集

今日は阿高の弓の稽古を見ました。

はじめ、阿高は寒いからだめだと言っていたけれど、わたくしがどうしても見たいというと、綿入れの着物を着るならいいとお許しが
出ました。

弓をかまえる阿高は真剣で、わたくしはなんだかどきどきしてしまいました。
でも、阿高が矢を放たずに弓を下ろしたので、どうしたのだろうと思いました。

阿高はわたくしのほうをしばらくじっと見てから、もし自分が矢を外したらかっこ悪いと思うだろうと言いました。
わたくしはそんなことで悩む阿高がまるで年下のように思えて、一瞬微笑みそうになりましたが、阿高が真剣に考え込んでいるので、
我慢しました。
そして、なるべくこわい顔で言いました。
わたくしは阿高がかっこいいから好きになったのではないのだと。
そして我慢できずに微笑んでしまってから、さらに言い継ぎました。
だから、わたくしはかっこ悪い阿高でも大好きだと。

すると、阿高はにこっと笑いました。
わたくしはまたどきどきしてしまいました。

阿高はすばやく弓を構え矢を放ちました。
矢は見事的の中央に刺さりました。

ほんとうにきれいな動きで、わたくしは感激して思わず阿高に飛びついてしまいました。

阿高は本当にかっこよかったです。

ただ、わたくしはひとつだけうそをついてしまいました。
わたくしはかっこ悪い阿高を見たことがないのです。
泥だらけでも、意地悪でも、ぼけていても、阿高はいつもかっこよかったです。
でも、これは阿高には秘密にしておこうと思います。
それに、わたくしはもし阿高が本当にかっこ悪いことをしても、やっぱり阿高が好きだろうと思います。



 



番外・阿高の日記・畑の土
at 2001 11/29 19:11 編集

「あたかー!」
鈴が笑顔であぜ道を駆けてきた。
手に持った包みを振り回している。
「鈴!走るな!」
転ぶから、と言いかけた瞬間、鈴は見事に草の根につまずいた。
走っていた勢いで、鈴の体が宙に浮いた。
おれは鈴にかけより、鈴の腕をつかんだ。
腕を引き、鈴を自分のふところに抱え込む。
そして、さっき、耕したばかりの畑の柔らかい土の上へ転がり込んだ。

おれの腕の中で、鈴は何が起きたかわからないという顔をしていたが、おれが自分の下敷きになっているのに気づくと、叫んだ。
「ごめんなさい、阿高!大丈夫?どこか痛いところはない?」
「ああ。なんとか大丈夫みたいだな」
おれが答えると、鈴は安心したように息を吐いた。
そして、顔を見合わせているうちに、わけもなくおかしくなってきて、気がつけば二人で大笑いしていた。
「だから走るなって言ったのに」
「・・・ごめんなさい」
そんな会話をしていても、ついつい顔が笑ってしまう。
ぽかぽかしたよい天気の日に、派手に転んだ末、柔らかい畑の土に二人で埋まっている。
ばかばかしいけれど、なんだか幸せだった。

起き上がると、おれの体の形に土がへこんでいて、鈴がくすくす笑った。おれもおかしくて笑った。

「あ、そうだわ、おむすびは?」
鈴があせったようにつぶやいた。
鈴はおれたちに昼飯を届けにきたのだった。
藤太のぶんも一緒でずいぶん大きな包みを手に持っていたはずなのに。
どこにもない。

すると、藤太が畑の反対側からやってきた。
「おーい、なんかにぎり飯の包みがすごい勢いでこっちに飛んできたけど、この包み方は鈴だよな?おれはもう腹ぺこなんだ。
食ってもいいだろう?」

鈴は思いっきりの笑顔でうなずいた。

落ちたところが畑でよかった。
畑をよく耕しておいてよかった。

鈴が無事で本当によかった・・・。

 



苑上の日記28・温石
at 2001 11/29 19:20 編集

今日、美郷さんと洗濯に行こうとしていたら、阿高に呼び止められました。
そして、布でしっかりくるまれたものをわたくしにくれました。
「あったかい・・・」
温石(おんじゃく)でした。

「洗濯で手が冷たくなるだろう。それで暖めるんだぞ」
「ありがとう、阿高」

都でもよく温石を使っていたけれど、こんなにうれしいの温石は初めてでした。

わたくしも、阿高が水を使う仕事をするときには、温石を作ってあげようと思いました。
 



阿高の日記28・温石
at 2001 11/29 19:31 編集

鈴が今日からまた美郷姉と洗濯に行くというので、温石を作ってもたせてやった。
あんまり体を冷やしてまた体を壊してはいけないと心配だったからだ。

美郷姉が、鈴に、
「鈴ちゃーん、阿高がね、わたしには温石作ってくれないのよ〜」
と泣きつくので、うまくいかなかったときの予備に作っておいた温石を渡した。


鈴は暖かいと言って喜んでいた。
鈴の喜ぶ顔を見るとおれまでうれしくなる。

また温石を作ってやろうと思った・・・。

 



        

 

 








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苑上の日記29・朝寝 (悠(笹)さまリクエスト・2100HIT)
at 2001 12/07 23:47 編集

今朝、なぜかすごく早くに目が覚めてしまいました。
まだ外は暗く、誰も起きていませんでした。
みなさんを起こしてしまっては申し訳ないので、そのまま布団の中でぼんやりしていました。

みんなが眠っているときに布団の中でぼんやりしていると、なんだか一人ぼっちになった気がします。
まるで、物の怪に襲われたときのように、わたくしのほかには誰もいないような気がします。
でも、物の怪に襲われたときはいつも阿高が助けてくれました。
初めて出合ったときは黒馬の姿で。
その後も、いつも。
阿高はいつもわたくしを助けてくれました。


わたくしは起き上がり、隣に寝ている阿高の寝顔を眺めました。
阿高がこうしてわたくしの隣に寝ている、という現実がなんだか不思議な気がしました。
都にいた頃、わたくしはいつも一人でした。
母上とも、兄上とも、賀美野とも、離されて。
乳母の榛名もわたくしと一緒に床につくことはありませんでした。

なんだか毎日がむなしくて。
それでも、わたくしは恵まれているのだと榛名に教えられて、そう信じていたあの頃。
いい着物を着て、いい食べ物を食べて。

でも、わたくしは阿高と出会って、本当の幸せを知ってしまったから。




「ふふ、子供みたい」
阿高の髪をなでながら、わたくしは小さくつぶやきました。
阿高の寝顔は本当に子供のようで。
伏せられた長いまつげと微かにゆるんだ口元があどけなくて。

阿高はどんな子供だったのでしょう。
藤太と二人でいたずらばかりしていたというから、やんちゃな子だったのでしょうか。

わたくしは、もう一度阿高の髪をなで、それからそっと阿高の寝床にもぐりこみました。
もぐりこんだ瞬間、そのほのかな暖かさに少し安心しました。
でも、もっと安心したくて、わたくしは阿高の腕と体の隙間に頭を入れ、阿高の体にしがみつきました。

阿高の体はほこほこするほど暖かくて、阿高にくっついていると、何もかも大丈夫だと思えました。

わたくしがずっとくっついていると、阿高がうっすらと目をあけました。
わたくしが謝ると、阿高は微笑んでわたくしの手を握りました。

「冷たい手してるな。おれの体であたためるといい」
そう言って、阿高は自分の懐にわたくしの手を入れました。
阿高の肌に直に触れると、びっくりするほど熱くて、でも、それはわたくしの手が冷たいからそう感じるようでした。
「阿高、冷たくないの?」
「大丈夫だよ」
阿高はにっこり笑うと、また寝入ってしまいました。
わたくしは幸せな気持ちでもう一度眠りにつきました。


起きてから阿高にありがとうと言うと、阿高は、
「あれ、鈴、いつの間におれの布団に入ってきたんだ?」
と言っていました。
寝ぼけていてぜんぜん覚えていないようでした。


でも、寝ぼけていてもわたくしを暖めてくれたことがすごくうれしかったです。




 



阿高の日記29・朝寝
at 2001 12/08 01:13 編集

今朝起きたら、鈴がおれの腕枕で寝ていてびっくりした。
しかも、鈴の手はおれの胸のところに直にあたっていて、さらに驚いた。

いつの間におれの布団に入ったんだと尋ねたら、
「阿高ったら、覚えていないの?」
と鈴がくすくす笑った。
そういえば、明け方に目を覚まして鈴になにか言ったような気もするが、よく覚えていなかった。

でも、目が覚めたときに腕の中に鈴がいるというのはずいぶん幸せなことだなと思った。
小さい頃から藤太と一緒に寝ていたけれど、誰かとここまで密着して寝るのは鈴が初めてだった。
誰かと一緒に寝るのは暖かくて気持ちのいいことだと思った。

その誰かは、鈴でなくてはだめだけれど。



「寒かったのか?」
とおれが訊くと、鈴は小さくうなずいた。
鈴はかなりの冷え性なのだ。
女には多いというけれど、鈴の手足は一度冷えると自力ではなかなか温まらない。

「よかったら、今晩も一緒に寝ようか?おれの体温、奪ってくれてかまわないから」
おれが提案すると、鈴は少し照れたようにうつむいて、それから、
「阿高が掛け布団を独り占めしないのならね」
と笑った。


冬は寒くていやだけれど、少しはいいことがあるなあと思った・・・。


 



苑上の日記30・反省
at 2001 12/08 22:15 編集

今日、洗濯が終わって帰ろうとしているところに、ちょうど畑仕事が終わった阿高が通りかかりました。
美郷さんは先に帰っていたので、その場にいたのはわたくしと、洗濯友達の女の子たちだけでした。

阿高は、わたくしに声をかけたあと、女の子たちにも機嫌よく挨拶しました。
女の子たちは、一瞬びっくりした顔をしていましたが、すぐにみんな阿高を囲んで楽しそうにおしゃべりを始めました。
わたくしも阿高のうしろにいたけれど、わたくしの知らない人の話や昔の話などはわからなくて、おしゃべりに加われませんでした。

阿高は口数こそ多くありませんでしたが、無愛想ではなくにこにこしていました。


わたくしはなんだかもやもやした気持ちになって、お屋形に帰りました。
阿高にどうかしたのかと訊かれたけれど、答えられませんでした。
女の子たちにあまりに無愛想すぎるのはよくないと阿高に注意したのはわたくしなのに、どうしてこんな気持ちになるのかわかり
ませんでした。

阿高はまたわたくしの体調が悪いのだと思って、ずいぶん心配してくれました。
阿高にたくさん心配してもらっていたら、いつのまにかもやもやした気持ちがどこかへ行ってしまいました。
一体どうしてなのでしょう?


よくわからないけれど、阿高がわたくしのことを心配してくれるととてもうれしくなってしまいます。
本当は心配をかけてはいけないのはわかっているのに、なぜだかうれしくなってしまいます。

阿高に心配をかけてうれしいなどと考えてしまうわたくしを反省しました。


明日は騎射の大会です。
がんばって阿高を応援したいです。


 



阿高の日記30・反省
at 2001 12/08 22:44 編集

今日、畑の仕事が早めに終わったので、鈴が洗濯をしている川によってみた。
鈴はまだ川にいた。
うれしくて、
「鈴」
と声をかけたけれど、前に鈴に言われたことを思い出して、他の女たちにもちゃんと挨拶をした。
鈴が仲間はずれにされたりしないように(鈴のことだから、大丈夫だとは思うけれど)、おれも女たちに少しは気をつかわないと
いけないと思ったからだ。

女たちはすぐにおれのまわりを取り囲んで、口々にしゃべり始めた。
おれはこれがかなわない。
鈴の話を聞くのはとても楽しいのに、他の女たちの話ってやつは、どうしてああも退屈なのだろう。
人の噂話や昔話や、そんなことばかりで。

なかなか話をきりあげることができず、ずいぶん長い間つかまってしまった。
一応笑顔でうなずいてはいたけれど、早く鈴と一緒に屋形に帰って昼飯を食いたいというのが正直な気持ちだった。

やっと女たちを振り切ることができて、鈴と屋形に帰った。
帰る道中、鈴は無口だった。
いつもは洗濯のときに見た花や虫や草や魚や雲や、そんなことを楽しそうに話すのに。

「どうした鈴?」
「ううん、べつに」
「でも、なんだかいつもと違う」
「そんなことないよ」
鈴は少し微笑んで首を振ったけれど、その表情や態度は明らかにいつもと違った。
「もしかして、また体調悪いのか?」
「ううん、平気」
「でも・・・。ごめんな、おれがあいつらの長話につきあってたから。冷えただろう?」
「うん、大丈夫。本当に平気だから」
そう答えた鈴は、確かに先ほどよりは表情が戻っていた。でも、やっぱりいつもと違う。

「今日は美郷姉に言っておいてやるから、昼からは部屋で寝ていたほうがいい」
「ううん、本当に大丈夫」
鈴はきっぱりと首を振って、それからまた微笑んだ。
「ありがとう、阿高」
「・・・つらくなったらちゃんと休むんだぞ」
「うん」

鈴は平気だというけれど、やっぱり少し体調が悪くなったのかもしれない。
おれがもっと気をつけてやらなくてはと反省した。
鈴を竹芝に連れてきたのはおれなのだから、おれが鈴を守らなくては。

明日は騎射の大会だ。
鈴は見に行くと言って、だいぶ前から楽しみにしていた。
明日は鈴が元気だといいと思った・・・。





 



苑上の日記31・嫉妬(恋する天使の羽さんリクエスト)
at 2001 12/10 20:27 編集

今日は阿高の騎射の大会でした。
豊高さんと阿高と藤太と千種さんとわたくしの5人で大会が行われる広場に行きました。

会場には数十人の出場者がきていました。
その中には真守さんもいました。
「よお、鈴!千種!」
とわたくしたちに声をかけてきましたが、千草さんに追い払われていました。

阿高は真守さんの姿を見て少し不機嫌そうでしたが、落ち着いているようでした。
「おい阿ー坊。このお兄様のために優勝してくれよ。お前に全財産かけたんだからな」
豊高さんが真顔で言いました。
「さあ、どうだろうね。責任は持たないよ」
阿高はそっけなく答えました。
「そんな冷たいこと言うなよ。鈴ちゃんにいいとこ見せるんだろう。ほら、鈴ちゃん」
豊高さんはわたくしを阿高の前に押し出しました。

「えっと・・・あの、阿高、がんばってね」
わたくしがとまどいながら言うと、阿高は微笑みました。
「まあ、鈴のために優勝賞品をとってきてもいいかな」


豊高さんは阿高がやる気になったのを見て、小躍りして喜んでいました。



阿高が馬を引いて出発地点に行ってしまったので、的がよく見える場所にみんなで移動しました。

阿高の順位は最後から2番目だったので、それまで他の人の騎射を見ていました。
いろんな人が出場していましたが、みんな五つの的のうち、ひとつふたつは外していました。

そんな中で際立って上手だったのは真守さんでした。
真守さんは力強くすべての的を射抜いて競技を終えました。

千種さんが、
「あの子、意外とやるのねえ」
と驚いたようにつぶやいていました。

そして、やっと阿高の番がやってきました。

阿高はいつも乗っているお気に入りの雌馬にまたがっていました。
馬に乗った阿高の髪は、太陽に照らされて明るく輝いていました。
こちらに向かって少し微笑んだ阿高の姿はすごくきれいで、女の子たちがざわめいていました。

合図がかかると、阿高は馬を走らせました。
馬と阿高は一体になったかのように見えました。
そして、的が近づくと、阿高は鐙の上に立ち、矢をつがえ、次々とすべての的を射抜いていきました。
阿高の動作は、真守さんの力強いきびきびとした動きとは異なり、とにかく優雅で美しくて、わたくしはまるで舞を見ているような
気持ちになりました。

阿高の次の人が的をひとつ外したので、優勝は阿高か真守さんということになりました。
判定の結果、阿高がすべての的の中央近くを射抜いていたのに比べて、真守さんは的の端に当たったものがあり、阿高の優勝に
なりました。
豊高さんが、
「ばんざい!やったぞ!」
と大喜びしていました。

わたくしもうれしくて、阿高に駆け寄って抱きしめたかったけれど、すぐに賞品を国司殿から受け取る式が始まってしまったので
できませんでした。

賞品を渡すのは国司殿の娘さんのお役目らしく、美しく着飾った娘さんが出てきて阿高に賞品を渡していました。
娘さんはほんのり上気したほおをして阿高をみつめていて、わたくしはまたなんだかもやもやした気持ちになりました。

しかも、優勝者の阿高は、娘さんからお酒をふるまわれていて、なかなか戻ってきませんでした。

わたくしはそれ以上娘さんと阿高を見ていたくなくて、近くの木陰に入ってしゃがみこみました。
どうしてだか、昨日よりもずっと心が重くもやもやしていました。

わたくしがぼんやりしていると、ひょっこりと真守さんが顔を出しました。
「鈴、おれの活躍見てくれた?まあ、結局阿高に負けちまったけどな」
と言って、真守さんは苦笑しました。
わたくしが黙っていると、真守さんは少し不安げな表情になりました。
「どうかしたか?もしかして、千種におれとしゃべるなとか言われた?」
「ううん」
わたくしが首を振ると真守さんはわたくしの前に小さなお菓子を差し出しました。
「じゃあ、これでも食べて元気だせよ。2番手の賞品なんだ。これっぽっちしかないけどな」

小さなお菓子は甘くて、少し元気が出た気がしました。
「ありがとう」
わたくしが微笑むと、真守さんは安心したようにうなずきました。
「鈴は笑ってるのがいい」

わたくしがなんと返事をしたものかと迷っていると、阿高がすごい形相でこちらにくるのが見えました。
でも、その前に千種さんが走ってきて、真守さんをぐいぐい引っ張って阿高と反対方向に連れて行ってしまいました。


阿高はすごく怒った顔でわたくしのところにやってきました。
「鈴。あいつと何を話していたんだ」
「別にいいでしょう、そんなこと。阿高こそ、国司殿の娘さんと何を話していたの」
わたくしはなんだかおもしろくなくて、少しつっぱって返事をしました。
「別になんにも話してなんかいないさ」
阿高も不機嫌に答えました。
「うそ。だって、娘さんは阿高にいろいろ話し掛けていたじゃないの。阿高のこと見てうっとりしていたもの」
「そんなの知らないよ」
阿高はぶすっとして言いました。
「なんかごちゃごちゃ言っていたけれど、ろくに聞いてなかったんだ」
「なんで話くらいちゃんと聞いてあげないのよ」
「鈴。言っていることがめちゃくちゃだぞ」
阿高は少しあきれたようにわたくしを見ました。
そんな阿高の表情も気に入らなくて、わたくしは不機嫌に同じ質問を繰り返しました。
「・・・なんで話をちゃんと聞いてあげないのよ」
「だって・・・仕方ないだろう」
阿高は上目遣いにわたくしを見て言いました。
「真守が鈴に近づいていくのが見えて、気になって気になって、話なんて聞いていられなかったんだよ」

わたくしの胸の奥に固まっていたものがいっきに溶け出しました。
「本当に?娘さんよりわたくしのことを気にしてくれたの?」
「あたりまえだろう?なんで鈴より知らない娘のことを気にしなけりゃいけないんだ?」
「わたくし・・・」
「どうした?」
「わたくしだって・・・」
「ん?」
「わたくしだって!今はこんなでぜんぜんきれいじゃないけれど、たくさんおめかしすれば、もう少しはましになれるんだから!」
わたくしが思い切って吐き出したのは、あまりにどうしようもない言葉でした。
わたくしがはずかしくてうつむきました。
でも、阿高は急に笑い出しました。
「なんだ、そうか」
と阿高はほがらかに言いました。
「鈴はあの娘に妬いていたんだな」
そして、わたくしを抱きしめてくれました。
「心配しなくても、おれは鈴のものだよ。おれの心も体も、鈴だけのものだよ」

それを聞いた瞬間、涙があふれだしてきました。止めようとしても、後から後からあふれてきて止まりませんでした。

「ごめんなさい、阿高」
わたくしが阿高の腕の中で謝ると、阿高は笑って首を振りました。
「いや。嫉妬されるのって少しうれしいものだな。いつもおればかり妬いていたから、たまには鈴が妬いてくれるとなんだか
うれしいよ。もしかして昨日も妬いていたのか?」
「うん・・・そうかもしれない」
わたくしが認めると、阿高はさらに強くわたくしを抱きしめました。

わたくしと阿高は抱き合ったまま、何度も接吻をしました。
口論をしたあとの接吻はいつもより熱い気がしました。

「優勝おめでとう、阿高」
わたくしが言うと、阿高は思い出したようにつぶやきました。
「優勝賞品、なんだったと思う?」
「なんなの?」
わたくしが尋ねると、阿高は苦笑しました。
「千種の織物」
「千種さんの?」
「ああ。そりゃ、高価なのは認めるけど、なんだか変な感じだよな。よかったら鈴にやるよ」
「本当?」
わたくしは飛び上がりました。
以前から千種さんの織る美しい織物がほしいなあと思っていたのです。
それが本当に自分のものになる日がくるとは夢にも思っていなかったので、わたくしはびっくりしてしまいました。
「ありがとう、阿高。すごくうれしい」
「ならよかった」
阿高は満面の笑みを浮かべました。
「それだけ喜んでもらえれば、やったかいもあるってものだな」
「ええ。阿高、すごくかっこよかった」

わたくしと阿高はもう一度抱き合い、もうひとつ接吻をしてから、藤太たちのところに戻りました。



今日は、わたくしのあのもやもやした感情が嫉妬だったことがわかりました。
騎射のときの阿高は本当に素敵だったので、もしかしたら阿高のことを好きな女の子がまた増えてしまったかもしれないけれど、
わたくしはきっともうあまり嫉妬しないでいられると思います。
阿高はそれだけの言葉をわたくしにくれました。
とてもうれしかったです。


阿高が優勝して本当によかったです。













 



阿高の日記31・嫉妬
at 2001 12/10 20:39 編集

今日は騎射の大会だった。
緊張はしなかったけれど、豊高兄が絶対優勝しろとうるさいのでまいった。

でも、優勝して賞品を鈴にとってきてやろうと考えたら、少しやる気が出てきた。

会場に着いて、参加者の中に真守がいるのを見て、さらにやる気が出た。
あいつには絶対に負けられないと思った。

真守が全ての的を射抜いたので、少しあせった。
鈴は感心した風に真守を見つめていた。

あいつには絶対勝とうと思った。


おれはいつもどおりに落ち着いて弓をひいた。
結果は、優勝だった。
おれのほうが真守よりも的の中央を射抜いていたらしい。

国司の娘から賞品が渡された。
千種の織った織物だった。
なんだかおかしくなって、つい苦笑してしまったら、目の前の娘が急に真っ赤になった。
どうかしたのかと娘を観察したら、ますます赤くなっていた。
わけがわからないので、娘を観察するのはやめて、観客の中に鈴を探した。

鈴はすぐに見つけられた。
どんなに遠くにいても、鈴の姿はすぐわかる。
色がすごく白いせいもあるけれど、後ろを向いていてもすぐに見つけられる。
どうしてなのだろう。

鈴はなんだか怒った顔をしているようだった。
遠目なのでよくはわからなかったけれど。
もしかして太陽がまぶしいだけなのだろうか、と考えた。

そうこうするうちに、国司の娘が酒をもってきた。
優勝者に振舞うという。
酒なんかよりも鈴のそばに行きたかったが、一応おとなしく杯を受けることにした。
娘はおれに酌をしながらいろいろ話しかけてきた。
おれは、はじめは適当に相槌をうっていたが、途中でそれどころではなくなった。
鈴の姿が消えたのだ。

あわてて視線をさまよわせると、少しはなれた木の下に鈴がいた。
ほっとした瞬間、また凍りついた。
真守がうれしそうに鈴に話しかけていたのだ。
思わず駆け出したい衝動にかられたが、国司の手前、そうすることもできず、おれはもんもんとしながら酒を飲み続けた。

やっと国司から解放されて鈴のところに駆けつけたときには、真守は千種に追い払われた後だった。

しかも、なんだか鈴の様子がおかしかった。
やっぱり怒っている。
おれが、真守と何を話していたのか尋ねると、鈴はあからさまに不機嫌な顔をした。
「別にいいでしょう、そんなこと。それより阿高こそ娘さんと何を話していたの」
いつもは絶対しないようなぶっきらぼうな鈴の返事に、おれもなんだか不機嫌になってきてしまった。

そして、おれと鈴は口論になった。
でも、鈴の主張はてんでめちゃくちゃだった。
おれが娘と何を話したのか気にするくせに、おれが聞いていなかったというと、どうしてきちんと聞いてやらないのかと怒る。

訳がわからなかった。

でも、おれが、鈴のことが気になって、娘の話なんて聞いていられなかったのだというと、鈴の表情が少し変わった。
表情が少し崩れ、目がわずかにうるんでいる。
まるで泣き出す直前の子供のような顔。

「わたくしだって」
と鈴は何度も繰り返した。
そして、叫んだ。
「わたくしだって、今はこんなでぜんぜんきれいじゃないけれど、たくさんおめかしすれば、もう少しましになれるんだから!」

おれは一瞬あっけにとられた。
何がなんだかわからなかった。
どうして鈴がきれいじゃないとか、そんな話になるのだろうと思った。

でも、すぐにわかった。
鈴はあの娘に妬いていたのだ。
豪華な衣装を身にまとい、装飾品で髪をかざり、丁寧に化粧をしたあの娘と一緒のおれを見て嫉妬したのだ。

そうわかったとたん、おれは笑ってしまっていた。
なんてかわいいんだろう、と。
鈴はわかっていない。
どんな美女がどんなにめかしこんだとしても、
おれは鈴の方がいい。
たとえ鈴が泥まみれで真っ黒になっていたとしても、鈴の方がかわいいに決まっている。

「鈴はあの娘に妬いていたんだな」
おれは鈴を抱きしめた。
うれしかった。
おれが真守に対して抱いたような感覚を、鈴もあの娘に対して持ってくれたのだろうか、と思った。

おれは鈴を安心させるように強く抱きしめて言った。
「おれは鈴のものだよ。おれの心も体も、鈴だけのものだよ」

すると、鈴はぽろぽろと大粒の涙をこぼしだした。
「ごめんなさい、阿高」
と何度も繰り返した。
おれは鈴を抱きしめ接吻した。
泣いている鈴はひどくかわいくて、いつもよりずっと長いこと口づけていた。


鈴が泣き止んだので、優勝賞品が千種の織物だったことを告げると、すごくよろこんでいた。
ずっと欲しかったのだという。


騎射の大会には豊高兄に無理やり出されたようなものだったけれど、鈴が喜んでくれたのでやっぱり出場してよかったと
思った・・・。








 



苑上の日記32・拉致
at 2001 12/11 22:22 編集

今日、夕方、お野菜を採りに畑へ行こうと林の横の道を歩いていたら、いきなり木の陰から知らない男の人たちが現れました。

わたくしが声をあげようとする前に、一人の男の人がわたくしにさるぐつわをかませました。
そして、手足も縄でしばられ、男の人たちがしょっていた背負いかごの中に入れられてしまいました。



ずいぶん長いことたって、わたくしはやっと背負い籠から出されました。
そこは納屋のような場所でした。

男の人たちの顔を見ると、ずいぶん若い人たちばかりでした。
どこかで見たことがあると思ったら、国府で会った日下部の人たちでした。

「叫ばれるとまずいから、さるぐつわははずせないよ。食べ物は明日持ってきてやるからな」
「悪く思うなよ。おれたちは千種を取り返したいだけなんだ」
「そうだ。千種は藤太に無理やりさらわれてかわいそうだ。きっと帰りたくても帰れないんだ」

そんなことないと言いたかったけれど、さるぐつわされていたので、うなることしかできませんでした。

「竹芝との交渉はまた明日考えよう」
「そうだな」

男の人たちはそう言ってうなずきあいました。

「ほら、今夜はこの毛皮にくるまって寝な。心配しなくても、千種さえ戻ってくればあんたも無事に帰してやるよ」

男の人たちはわたくしに1枚の毛皮を渡し、納屋を出て行きました。
外からかんぬきをかけている音が聞こえました。


わたくしは仕方なく、藁の上に横になりました。
手足もしばられたままで不自由でしたが、なんとか毛皮を体に巻きつけることができました。

暗闇の中で静かに横になっていると、どんどん悲しくなってきて、涙が出てきました。

本当なら、いまごろは阿高と一緒に暖かい布団に入って、幸せな気持ちで眠りにつくはずだったのに。

心の中で阿高の名前を何度も呼びました。
でも、阿高の顔を思い浮かべたら余計に悲しくなってしまいました。

とにかく、明日、さるぐつわを外してもらったら、あの男の人たちと話さなくてはと思いました。
きちんと話せばあの男の人たちだってわかってくれるかもしれません。

でも、やっぱり悲しくてたまりませんでした。
明日の今ごろは阿高と一緒に眠っているとよいなあと思いました・・・。
 



阿高の日記32・拉致
at 2001 12/13 01:01 編集

夕方、野良仕事が終わって藤太と一緒に屋形に帰ったら、美郷姉が庭に出てうろうろしていた。
どうしたのかと尋ねたら、味噌汁用の白菜を採りに畑に行った鈴がまだ戻ってこないのだという。おれはなんだか嫌な予感がした。

「お味噌汁は大根にしたから野菜のことはいいんだけれど、鈴ちゃんが心配で」
「もしかして、白菜がどれだかわからなくて悩んでいるのかもしれないぞ」
藤太がちゃかした。
すると美郷姉は恐い顔で藤太をにらみつけた。
「ばか!冗談言っている場合じゃないのよ。もしかしたらどこかで転んで歩けなくなっているのかもしれないじゃないの」
そして、不安そうにおれを見た。
「ああ、心配だわ。ねえ阿高、悪いけど、うちの畑まで行って鈴ちゃんを探してきてちょうだい」
「ああ」
おれはすぐにうなずいた。言われなくても行くつもりだった。
おれは畑へ向かって駆け出した。
「待てよ、阿高。おれも行く」
と藤太もついてきた。

畑にはだれもいなかった。
白菜を見てみたけれど、鈴が採ったらしい痕跡はなかった。
「ここには来ていないってことだな。ということは、畑までの道中に何かあったってことか」
藤太は冷静に分析していたけれど、おれはそれどころではなかった。

鈴がいなくなった、という事実に、頭が混乱した。
だって、おかしすぎる。
畑までの道には何もない。
小さな林があるくらいだ。
そんなところにわざわざ迷い込むはずはない。

「おい、阿高、大丈夫か」
藤太が心配そうにおれの顔をのぞきこんだ。
「とりあえず、屋形に帰ろう。案外、鈴が戻ってきているかもしれないぞ」
「・・・ああ」

藤太は微かな希望を与えてくれたけれど、それはむなしい言葉に聞こえた。
そうであったら、どんなにいいことだろう。屋形に戻ったら鈴がいる、そうであったらどんなにいいことだろう。
でも、その可能性はないと思った。
たとえどんな理由があったとしても、美郷姉から頼まれた用事をほっぽって、鈴がどこかへ行ったりするはずがない。

とすれば、怪我をしたか、なにかあったかしか考えられない。

でも、怪我をするにしても、道中には崖も何もない。転んだのならその辺にしゃがみこんでいるはずだし、ひどい怪我なら屋形に
かつぎこまれるはずだ。

「ほら、阿高。とにかく帰ろう」
藤太の言葉に促されて、おれは重い足どりで屋形へ帰った。心のすみに祈るような気持ちがあった。鈴が戻っていますように、と。


だが、案の定、鈴は帰っていなかった。
予想していたのに、胸にこたえた。
泣きたくなった。
鈴がいない?そんなことがあるものか!と心の中で何度も叫んだ。

親父さまや良総兄も心配して表に出ていた。
藤太が畑にも鈴がいなかったことを告げると、親父さまはますます難しい顔になった。

「おれ・・・鈴を捜してくる」
おれが再び駆け出そうとすると、親父さまがおれを止めた。
「待て、阿高。やみくもに探しても鈴さんが見つかるとは思えん」
そして、おれの両肩をつかんでおれの目を強く見据えた。
「大丈夫だ。鈴さんはきっと無事に帰ってくる。だが、そのためにはおまえが冷静に行動することが必要だ。おまえが鈴さんを
助けるんだ。落ち着きなさい」

親父さまに言われて、おれは自分がどれだけ混乱していたかに気づいた。
あせるだけでは鈴を救えない。
そう思って、意識的に心を落ち着かせた。

「美郷、酒をもってきなさい。阿高の顔色が悪すぎる」
「まあ、本当!」
屋形からもれる明かりに照らされたおれの顔を見て、美郷姉が声をあげた。おれの顔色は土気色だと言って、美郷姉はひさごに
酒をくんできてくれた。

酒を一口二口飲んだら、やっと体に血の気が戻ってきた。頭もようやく回るようになった。


まずは情報を集めなくてはならなかった。
すぐに周辺の家に問い合わせた。
すると、鈴の洗濯仲間の娘が、夕方見知らぬ男たちを見たと言ってきた。
「堂々としていたから、なにか用があって竹芝にきている人たちだと思ったの。挨拶もしたわ」
「どんな男たちだった?」
「えっと・・・みんな若かったわ。それから、背負い籠をしょってた」
「背負い籠!それだ、間違いない!」
藤太が叫んだ。
「どんな顔だったか覚えていないかい?一人でもいいから」
「え・・・」
娘は困惑して黙り込んでしまったが、やがて曖昧な表情でつぶやいた。
「そういえば、すごくあごのとがった人がいたかも・・・」
「あごのとがった人?」
千種が叫んだ。
「・・・もしかして、その人、目はすごく切れ長じゃなかった?」
すると、娘は深くうなずいた。
「あ、そうです。涼しげな目元でけっこうかっこいいなあって思ったから」

娘の言葉を聞いて、千種は青ざめてうなだれた。
「千種、知ってるのか?」
おれが勢い込んで尋ねると、千種は弱々しくうなずいた。
「ええ。日下部の若い衆の一人よ。鈴ちゃんをさらったのは十中八九日下部の人間だわ。どうしよう、わたしのせいで・・・」
千種はそう言って泣き崩れた。その肩を藤太が支えた。

「今から日下部へ乗り込んでやる!」
おれが叫ぶと、千種が涙をぬぐって立ち上がった。
「いいえ、私が行きます。私のせいですから。私が責任をもって鈴ちゃんを取り戻してきます」

しかし、また親父さまに止められた。
親父さまは千種に尋ねた。
「千種さん、その男たちというのはどんな人間なのかね?鈴さんに危害を加える可能性はあるかい?」
千種は少し考えてから小さく首を振った。
「いえ、ばかな子たちですけれど、そんなことはしないと思います。たぶん、私が無理やりさらわれたと思って、私を助け出すと
いう気でいるんだと思います」
そして、また涙をこぼした。

「そうか。鈴さんは人質というわけだな。それなら、明日あたり何か言ってくるに違いない。それを待とう」
親父さまの言葉に、おれは反対した。
「なんでだよ!鈴をさらった奴らがわかったんだから、そいつのところに乗り込んで鈴の居場所に案内させればいいじゃないか!」
「ばかもの!」
親父さまはおれを一喝した。
「それでは何にもならんだろうが!力づくで取り返してもまた鈴さんがさらわれてしまってはどうしようもない!おまえはそんなに
何度も鈴さんをつらい目にあわせたいのか!鈴さんをさらった奴らへの怒りはわかる。だが、鈴さんに危害が加えられていない
だろうことは千種さんも言っている。だったら、抑えろ!抑えて、考えろ!鈴さんを無事に取り戻し、なおかつ二度とこんなことが
起こらないようにするにはどうすればいいのかを!」


親父さまに言われて、おれは考えた。
だが、やっぱり鈴の身が心配でたまらなかった。
「千種、本当に鈴は無事だと保証できるか」
千種は青ざめた顔でうなずいた。
「ええ。できるわ」
「なら、親父さまの言葉に従う。明日まで待つ」

おれは苦しい気持ちで押しつぶされそうになりながら言った。
でも、本当は今すぐにでも鈴を助けに行きたかった。



みなが寝静まった後も、おれは眠れなかった。
庭に出てちびクロの横に座り込んだ。
ちびクロもなんだか落ち着かない様子だった。
「お前も鈴がいなくて不安なのか?それともおれの心に共鳴しているのかな」
おれがつぶやくと、ちびクロはおれの顔をなめた。
「なあ、ちびクロ、お前にはわかるんじゃないか?鈴は無事か教えてくれ。こうしていても、鈴がどんな思いをしているのか考えたら
不安で気が狂いそうだ」
すると、ちびクロは大きく一声吼えた。
自信のある吼え声だった。



今ごろ鈴はどうしているだろう、と考えた。
どこかに閉じ込められているのだろうか、寒い思いはしていないだろうか、腹を減らしてはいないだろうか。
心細い思いをしているだろうに、泣いてはいないだろうか。

今すぐ鈴を助けに行きたかった。
行って、この手に抱きしめて、鈴の存在を確かめたかった。

鈴がいない。
この事実は容赦なくおれを打ち据える。
苦しくてたまらなかった。
鈴がつらい思いをしているのではないかと考えると、胸がつぶれる思いがした。


明日は必ず鈴を助けに行こう。
何があっても、明日には必ず鈴を連れて帰ろう。
そして、鈴が二度とこんなつらい思いをしないように、鈴を守ろう。

鈴を守るために、あと少しの我慢だ。
明日になって、日下部の奴らが何か言ってきたら、そうしたら。

朝が待ち遠しくてたまらない。


鈴が無事に帰ってきたら、鈴を思いっきりだきしめてやろうと思った・・・。


 



苑上の日記33・解放
at 2001 12/15 02:03 編集

早朝、なんだか納屋の外が騒がしくて目が覚めました。
縄でしばられたままの体勢で、絶対眠れないと思っていたのに、いつのまにかうとうとしてしまっていたようでした。

わたくしは緊張しながら身を起こしました。

納屋の中はあまり寒くなくて、どうしてだろうと見ると、納屋の隅に火が置いてありました。
わたくしをさらった誰かがいれてくれたようでした。
やはり、そんなに悪い人たちではないのだと少しほっとしました。

納屋の扉の閂が引き抜かれる音がして、誰かが納屋の中に駆け込んできました。

「鈴!大丈夫か!!」
真守さんが飛び込んできて、わたくしを強く抱きしめました。
真守さんはひどく顔色が悪く、苦しげな表情を浮かべていました。

わたくしは一瞬阿高たちではないかと期待してしまったので、少しがっかりしましたが、知っている人に会えてとてもうれしくなりました。
わたくしがうめくと、真守さんは慌ててわたくしのさるぐつわを外してくれました。
「ふぅ。真守さん、ありがとう」
「かわいそうに・・・。つらかっただろ」
わたくしの縄を外しながら、真守さんは目に涙を浮かべていました。
わたくしの腕や足には縄の痕のあざがついていました。

「くそっ、あいつら、ばかなことしやがって」
真守さんは怒りをこめてつぶやきました。
そして、いきなり立ち上がり外に出て行ってしまいました。

直後、ばしっ、どすっ、というような鈍い音がしました。
わたくしが固まってしまった体をなんとかほぐして立ち上がり外へ出ると、真守さんがわたくしをさらった男の人たちを殴っていました。

「やめて!真守さん!」
わたくしは駆け寄って、真守さんの袖を引きました。
「鈴」
真守さんは怒った顔のまま振り向きました。

「わたくしに話をさせて。この人たちの誤解を解きたいの」
「・・・わかったよ。鈴がそう言うのなら」
真守さんは男の人たちを連れてきました。
男の人たちは全部で4人でした。
「こいつが首謀者だよ」
真守さんが指差したのは、あごのとがった、目の切れ長な、少し都の貴族のようなところのある男の人でした。
わたくしは息を吸い込み、落ち着いて話しかけました。
「あなたは千種さんが無理やり竹芝にさらわれたと言っていたけれど、それは違うわ。千種さんは藤太のことが好きで、望んで
竹芝に来たのよ。今も幸せに暮らしているわ」
「そうだ」
と真守さんも言いました。
「おれも何度もそう言っただろう。せっかく千種が幸せに暮らしていたというのに、お前たちがこんなことをしでかしたせいで、
かえって千種の立場が悪くなるんだぞ。自分たちのしたことで千種につらい思いをさせるというのがわからないのか!」
真守さんの言葉に、男の人たちははっとしたように顔を見合わせうなだれました。
「そもそも、どうして鈴をさらおうなんて思いついたんだ?」
「騎射の大会で・・・真守がこの娘と仲良さげに話しているのを見て。この娘をさらったら、千種を返せと交渉ができると思った。
それに・・・真守も喜ぶと思ったんだ。この娘を嫁にできるから」
「ばかやろう!」
首謀者という男の人を、真守さんは殴り飛ばしました。
「おれは自分のことは自分で決める!それに、娘をさらうときは娘の意志が大事なんだ。有無をいわさずさらってくるやつが
あるか!」

真守さんはしばらく男の人たちをどなりつけていましたが、ふいに、少し表情を和らげました。
そして、わたくしを振り向いて、申しわけなさそうにつぶやきました。
「本当はおれもわかってるんだ。ごちゃごちゃ言ってるけど、こいつら、本当は千種に会いたいだけなんだ」
「え?千種さんに?」
わたくしは驚いて訊き返しました。
「千種さんを取り戻したいのでなくて、会いたいだけなの?」
「ああ、たぶんな」
真守さんは苦笑いして男の人たちを見ました。
どうやら図星だったらしく、男の人たちは恥じ入るようにますます深くうつむきました。
「こいつらだって、わかっちゃいるんだ。千草が自分の意志で竹芝に行ったことくらいは。ただ、いきなりだったからな。千種に
別れを言う暇もなかった。騎射の大会だって、大方、千種の顔を見るために行ったんだろう」
真守さんは一番手前にいた男の人の頭を軽くはたきました。
「こいつらはみんな、小さい頃からずっと千種が好きだったんだ。今年のお祭りには千種を誘おうと心に決めていたんらしいよ。
それを、いきなり藤太にさらわれちまったから、心の整理がつかなくてこんなことしでかしちまったんだろう。だからって許される
ことじゃないけどな」
真守さんはそう言うと、男の人たちの頭を一発ずつこづきました。

「本当に悪かったな、鈴。竹芝の屋形の近くまで送るから早く帰った方がいい。きっとみんな心配してる。千種も、きっと一睡も
しないで待ってる。鈴をさらったのが日下部の人間だなんてことはすぐわかるだろうから、きっと責任を感じて苦しんでるだろう」
真守さんがわたくしにそう言うと、男の人たちは泣き出しました。
「どうしよう・・・おれたち・・・」


わたくしは、事情を知って、自分をさらった男の人たちにすっかり同情してしまいました。
彼らのことを怒る気持ちは失せていました。

娘をさらう、という武蔵の風習は、難しい問題を含んでいるのだと思いました。
娘が同意していれば、恋人たちは幸せになれるでしょう。でも、残された家族や知人はどうすればよいのでしょう。
ある日突然、娘がいなくなってしまった親は、娘に思いを寄せていた男たちは、友人は。
彼らはその思いをどこに向ければよいのでしょう。

わたくしも同じようにさらわれて竹芝にきました。兄上や父上には予期せぬご心痛を与えてしまったと思っています。賀美野にも、
寂しい思いをさせてしまっています。
ですから、どうしても人事とは思えませんでした。
わたくしをさらったこの男の人たちは、わたくしにとっての兄上であり父上であり賀美野なのです。
千種さんが突然いなくなってしまった寂しさをどこにも向けることができなかったのです。
そう思ったら、とても怒ることなどできませんでした。


わたくしは男の人たち一人一人の手をとって、微笑みかけました。
「みんなで千種さんに会いに行きましょう」

男の人たちは信じられないというようにわたくしを見ました。
真守さんも驚いていました。
「鈴、どういうことだ?」
「言ったとおりの意味よ。みんなで千種さんに会いに行くの。そして、竹芝のみなさんにはたくさんご迷惑をおかけしてしまったから、
わたくしと一緒に謝ってほしいの。そうすれば、千草さんの立場だってずっとよくなるわ」

わたくしの提案にみんなはじめはずいぶん戸惑っていました。でも、最終的には同意してくれました。
「あんたにはずいぶん迷惑かけたのに、どうしてそこまでしてくれるんだ?」
首謀者の男の人が言いました。
「そうね」
わたくしは少し考えてから、笑って答えました。
「たぶん、わたくしは千種さんが好きだから。だから、竹芝と日下部にはなるべく仲良くしてほしいのよ」


そして、男の人たち4人とわたくしと真守さんは、みんなで竹芝の屋形に向かいました。
わたくしがさらわれたときに少し足首を痛めてしまっていたので、みんなが交代でおぶってくれました。
やっぱり悪い人たちじゃないなと思いました。


竹芝の屋形に着くと、庭先に阿高とちびクロがいて、わたくしの姿を見るなりすごい勢いで駆けてきました。
そして、阿高はわたくしをしっかりと抱きしめてくれました。
「鈴・・・鈴・・・」
阿高は泣いていました。こんなに激しく泣いている阿高を見たのは初めてで驚きました。
でも、阿高の温かい腕に包まれていると、すごくほっとして、同時にすごく泣きたくなってしまって、わたくしも泣いてしまいました。
わたくしはこの腕の中に帰りたかったのだと、強く思いました。
千種さんも飛び出してきて、
「よかった、鈴ちゃん・・・」
と泣いていました。



お父様が出ていらっしゃったので、わたくしから事情を話して、日下部の人たちを許してくれるようにお願いしました。
男の人たちもみんな土下座して謝りました。
お父様は静かにうなずきました。
豊高さんたちはまだ怒ってらっしゃいましたが、お父様の決定に従いました。
たぶん、お父様は千種さんのために許してくださったのだと思いました。

その後、男の人たちは千種さんにびんたされていました。
でも、男の人たちは千草さんが本当に竹芝に溶け込んでいることを見て、やっと心の整理がついたようでした。
みんな憑き物が落ちたようにすっきりとした表情で帰っていきました。
真守さんも男の人たちを追い立てながら帰っていきました。


日下部の人たちが帰ってからは大騒ぎでした。
わたくしは傷の手当てをしてもらい、美郷さんと千種さんが心をこめて作ってくださったおいしいお料理をたくさん食べました。
阿高がとってきてくれたみかんも食べました。
阿高はその間もずっと側にいてくれて、わたくしの世話をやいてくれました。


夜は、早めにお布団に入りました。
阿高がわたくしを暖めてくれました。
そして、何度も接吻してくれました。

阿高はやけに口数が少なくて、でもわたくしをとても気づかってくれました。
「阿高、心配かけてごめんなさい」
とわたくしが謝ると、黙って首を振りました。
そして、またわたくしを強く抱きしめました。

竹芝に戻ってきて、阿高の腕の中にいられてとても幸せだったけれど、阿高の様子が少し気になりました。
どうしたらよいのかわからなくて、わたくしも阿高をしっかり抱きしめてあげました。


今日はいろんなことがあって大変な一日だったけれど、日下部と竹芝の仲が思ったよりも険悪にならなくてよかったです。
何よりも、阿高のところに戻ってこられて、本当によかったです。



 



阿高の日記33・解放
at 2001 12/18 23:29 編集

ゆうべは一晩中ずっとちびクロと庭で過ごした。
朝になっても、ずっと外で、日下部からの連絡がくるのを待っていた。

だから、鈴が日下部の男たちと一緒に戻ってきたときには驚いた。
鈴は真守に助けられ、男たちを説得したのだという。

鈴が戻ってきたことがうれしくて、鈴を抱きしめた。
真守のことは少し気になったけれど、それよりも鈴のことだけ考えていた。

日下部の奴らが帰ってからも、ずっと鈴と一緒にいた。食事をするときも、傷の手当てをするときも。
眠るときも。

鈴と離れるのが怖かった。
もう二度と、一瞬たりとも離れていたくなかった。

今までは、ただ気づいていなかった。
幸せがどんなにもろいかということを。

藤太が仲成に切られたときにも、これに似た感情をもった。
でも、藤太と鈴はやっぱり違う。
藤太はもちろんおれにとって大切だけど、鈴はそれ以上の存在で。

鈴はおれの対になる人。
世界でただ一人、おれと対になる人。

だから、鈴がいなくなるなんて、想像したこともなかった。

でも、この幸せのもろさを思い知らされた。
今回は無事帰ってきたからよかった。
でも、それは相手の意志次第だ。
相手が害意を持っていれば、簡単に鈴を傷つけられる。
存在を消すことも・・・できる。


鈴が死んだら、と考えただけで気が狂いそうになる。
でも、人は死ぬ。あっさりと。
おれの父のように。
おれの母のように。

どうしたらいいんだろう。
鈴を守るには、どうしたらいいんだろう。

鈴がいない世界など耐えられないから、おれは鈴より先に死にたい。
でも、それでは鈴を守れないから、鈴より先に死んではいけないとも思う。

鈴と一緒に生きたい。
それが叶うなら、他のことなどどうでもいい。



今はただ、鈴を失うことがこわい。
鈴がいなくなることがこわい・・・。

 



番外・プトカの日記・夢(やひろさんへ)
at 2001 12/19 22:49 編集

久しぶりに夢を見た。
チキサニの夢。


「わたしを裏切ったのね」
チキサニはわたしに言った。
唇をかみしめながらも、静かに。
静かだけれど、激しい怒りと絶望をこめて。

チキサニの表情を見た瞬間、わたしは自分のしたことをもう後悔していた。彼女のあんな表情を初めて見た。感情のない冷たい顔。
もう何も信じないというような、冷たい目。

「お許しください、姫さま。お許しを」
わたしは詫びたけれど、チキサニは許してはくださらなかった。
私に口をきいてもくださらなかった。


『わたしを裏切ったのね』
チキサニにかけられた言葉がいつも頭の中を渦巻いていた。
チキサニのお世話をしながらも、自分はなんということをしてしまったのだろうと涙が出た。

チキサニが愛した倭の若者が死んだ後は、もうチキサニは生きる気力すら失ったようだった。
ただ、おなかにいる子供のためだけに、チキサニは生きていた。

子供を産み落とした後、チキサニ体調を崩し臥せっていた。そして、突然、わたしを呼んだ。
「プトカ、お願いがあるの」
と。

1年近く口をきいてくださらなかったチキサニの声に、わたしは飛んでいった。
チキサニは赤ん坊の頭をなでながら言った。
「この子を、倭の柵まで連れて行ってほしいの。今、倭の柵に勝総のお父上がきていらっしゃるのよ、彼の遺品を引き取りに。
だから、お父上にこの子を連れて帰ってもらうの」
「姫さま・・・」
わたしは戸惑った。それはあまりにとっぴな案に聞こえた。
「でも、この子は姫さまがお育てになったほうがよいのではないでしょうか?」
わたしが言うと、チキサニは小さく首を振った。
「それはできないの。わたしは育たないはずのこの子に自分の命を与えるのだから。だから、わたしは生きてこの子を育てることは
できないの」
「そんな・・・姫さま・・・」
わたしはあまりのことに言葉を失った。姫さまが死んでしまうと思っただけで、涙がこぼれた。
チキサニはわたしの手をとった。
「泣かないでプトカ。お願いよ、わたしの最後の願いをきいてちょうだい。わたしはこの子には、勝総の故郷で育ってほしいの。
わたしが行けなかった、緑の草がなびき風の吹き通る美しい国で、幸せになってほしいの」
チキサニは愛しそうに赤ん坊を抱き寄せ、その首に小さな勾玉を結びつけた。勾玉は薄紅色の光を放って輝いていた。
長い沈黙の後、わたしは心を決めた。
チキサニの最後の願いをかなえてあげたかった。
「・・・わかりました」
そして、チキサニの目をみつめて言った。
「わたしの命にかえても、この子を無事に送り届けます、ご安心ください」
すると、チキサニは大きな美しい瞳からぽろぽろと涙をこぼした。
「ありがとう、プトカ。こんな危険なことを頼んでしまってごめんなさい。あなたを信じるわ。大好きよ、プトカ」

そして、チキサニは赤ん坊を私の腕に預けると、寝台に身を横たえ、ゆっくりと目をとじた。
チキサニが目を閉じるのとほぼ同時に、ふいに勾玉の光が弱まり、消えた。
「え?」
一瞬訳がわからなかった。
でも、すぐに気づいた。チキサニが死んでしまったことに。

大声で泣き出したいのを我慢して、わたしは赤ん坊を抱えて走った。
誰にも見つからないように、倭人の柵へ。
そして、赤ん坊があの若者の父親らしき人に無事に抱き上げられるのを見届けて、チキサニの元に戻ったのだった。


チキサニは最後の最後でわたしを許してくださった。
わたしに贖罪の機会を与えてくださった。
わたしが死ぬまで苦しまなくてもいいように。

チキサニ。明るい火の女神。あなたは本当に優しく美しい人だった。わたしたちを明るく照らしてくれた。

ああ、チキサニ、もうすぐあなたの元へ行けます。
もうすぐ・・・。





「母さん!」
「・・・・リサト」
娘の声で、わたしは目を覚ました。
いつのまにか眠っていたらしい。
自分の手を見る。しわだらけの手。あの赤ん坊を抱いて走った頃はしわなどなかった。
それだけの年月がたったのだ。

「死なないで、母さん!」
リサトが泣いている。
かわいい私の娘。あなたが泣かなくてすむように、わたしがとっておきのお話をしてあげる。
あなたの大好きな美しいチキサニ女神のお話を・・・。



 



番外・リサトの日記・母の告白(紗耶さんリクエスト)
at 2001 12/19 23:28 編集

幼い頃からチキサニに憧れていた。
明るい火のチキサニ、美しい人。

母がチキサニに仕えていたということは、わたしの自慢だった。
毎晩寝る前には、母にチキサニの話をねだった。
ただ、母が、最後にチキサニを裏切ったことだけは残念でたまらなかった。チキサニを失わないためにしたのだとわかっても、
やはり残念だった。


その母が、今朝、突然わたしに語りだした。
人払いをして、わたしだけに。
重大な告白を、した。


母は危篤状態で、意識がなかった。
もうこのまま息をひきとるかとも思えた。
でも、
「母さん!」
とわたしが叫んだそのとき、母はゆっくりと目をあけた。
「・・・・・リサト」
「母さん、死なないで!」
私は絶叫した。涙がこぼれた。

母は優しく笑っていた。
「泣かないで・・・。母さんがお話をしてあげるから」
母は思い出すようにつぶやいた。
「おまえはいつも母さんがチキサニを裏切ってしまったことを残念がっていたね。でも、本当はまだ続きがあるのよ」
そして、遠くを見つめて言った。
「さっき、チキサニの夢を見たの。なつかしい夢だった。そうしたら、お前にだけは伝えてからでないと死ねないと思ってしまったの」

そして母は語りだした。
チキサニの赤ん坊を、母が倭人の柵まで連れて行ったのだということを。

わたしはひどく驚いた。
チキサニの子供がいなくなってしまったことは有名だったけれど、まさか母が倭の柵まで連れて行ったとは思ってもみなかった
からだ。

母は、わたしの驚きぶりを見ながら、柔らかく微笑んだ。
「だって、どうしても、チキサニの願いを叶えてあげたかったの。そう、チキサニは最期にわたしにありがとうと言って笑って
くれたのよ。わたしを許してくれたの。うれしかった・・・」
そして、わたしの手を握って言った。
「チキサニの子はきっといつかここへ来るわ。今度はお前がその子を助けてあげるの。母さんのかわりに・・・頼むね」

そして、母さんはチキサニもとへ行ってしまった。



すごく悲しくてたくさん泣いた。
夜中まで泣いていた。
泣いて泣いて、それから、母さんの最後の頼みを思い出した。




倭語の勉強を始めよう、と思った。
いつかここへやってくる、チキサニの息子のために。
チキサニの息子と、いろんな話をすることができるように・・・。


 




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