金木犀





金木犀の香りがした気がした。

そのことを伝えたくて、阿高は、すぐ後ろを歩いているはずの鈴を振り返った。
だが、鈴はいなかった。

「鈴」

呼んでみたが、返事はない。

阿高は息苦しさを感じた。
胸がしめつけられるように苦しい。

心配のしすぎだとは自分でもわかっている。
だが、鈴がいなくなったかもしれないと仮定するだけで、阿高はどうしようもなく
不安になるのだった。

(大丈夫だ、そこらにいるに決まっている)

だが、過去には鈴がさらわれたこともあった。

鈴は気丈だが、力では悪漢に抵抗できない。

鈴をさらおうと思えばだれでもさらえるし、鈴を傷つけようと思えばだれでも鈴を
傷つけることができるのだ。

そのことに気づいてしまってからは、阿高はいつも恐怖を感じていた。

鈴は、もはや阿高のすべてと言っても過言ではなかった。
鈴がいない生活など、とても考えられなかった。
鈴を失ったらその後どうやって生きていけばいいのかわからないとさえ思えた。

鈴を失うことが怖かった。
こんな怖さがあるなど知らなかった。

藤太を千種にとられて失うのではないかと考えたときの恐怖は焦りに似ていた。
だが、鈴を失うのではないかと考えたときの恐怖は絶望に似ていた。


阿高は金木犀らしき木々に向かって駆け出した。
鈴はきっと金木犀の香りにひかれて歩き出したにきまっているのだから。


        *


金木犀の木は、何本も群れるように生えていた。
今が盛りの金木犀の花たちは、むせかえるほどの芳香を放っていた。

と、金木犀の葉陰に、桜色の着物の袖が見えた。

阿高は安堵のあまりしゃがみこみそうになった。
目を閉じ、胸いっぱいに息を吸い込む。
胸の中が金木犀の香りでいっぱいになる。

阿高は目を開け、その息で名を呼んだ。
阿高のただ一人の人。かけがえのない人。


「鈴」



金木犀の花を飽きもせずじっとのぞきこんでいた少女が、ぱっと顔をあげた。

少女は阿高のところまで小走りにかけてくると、阿高に飛びついた。
そして、阿高を見上げて微笑んだ。



「・・・・見つけた」
阿高はつぶやいた。
涙が出た。

鈴はここにいる。
自分と一緒に。

そう思うだけで涙が出た。
それだけのことでばかみたいだと思ったけれど、涙は出た。


「帰ろう、一緒に」


そう言えることに喜びを感じながら、阿高は少女に手を差し伸べた。
阿高の差し伸べた手に、少女はためらいなく自らの手を重ねた。

阿高はその温かな手を、握った。

                                 (終)






(あとがき)

私の友人の大切な人が病気で亡くなったことを、今日知りました。
大切な人を亡くす悲しみは想像するだけでも大変なものだと思います。
大切な人を大切にして、今ある時間を大切にして、ありふれた日常生活でも、
感謝して生きていきたいと心から思いました。

一言メッセージをくださった方、ありがとうございました。
うれしかったので、駄文ではありますが、書かせていただきました。

イメージソングはルルティアの「智恵の実」です。
きれいで切ない曲です。

ぴっころ 拝        2004/12/21