あたその日記



番外 旅立ちと別れ




「苑上」
阿高と一緒に駆け去ろうとしていた苑上に、建物の陰から声をかけるものがいた。
思わぬところで名を呼ばれて、苑上はぴくりと体をふるわせた。
だが、すぐにその声の持ち主に思い当たった。
「兄上?」
苑上が呼ぶと、柱のかげから安殿皇子が姿を現した。
「一目でも会えてよかった」
微笑む兄に、苑上は混乱した。

あの事件以後も、皇太子である安殿皇子にはなかなか会うことができず、苑上が
最後に謁見を願い出たのは五日ほど前のことだった。

「兄上、どうしてここに?」
「賀美野が教えてくれた」
そう言うと、安殿皇子はふいに沈鬱な表情になった。

「やはり行ってしまうのだね、彼と一緒に」
苑上はうなずき、当然反対されるものと思い、身をすくめた。
だが安殿皇子は寂しげに微笑んだだけだった。
「苑上はいつも思ったとおりに行動できるのだね。そんな苑上を、わたしはいつも
うらやましいと思っていた」

「兄上・・・」
苑上は驚いて顔をあげた。
兄が自分をうらやましがることがあるなどと、今まで一度も考えたことがなかった。
「皇に苑上がいてよかった。阿高を連れてきてくれたのは苑上だ。そなたが都と皇と
わたしを救ってくれた」
「そんな、わたくしは何も・・・」
自分は何もしていないと、そう言おうとした苑上を、安殿皇子はそっと抱きしめた。

「あ、兄上?」
戸惑う苑上に、安殿皇子は涙交じりの声で言った。
「今、そなたを行かせてしまったら、きっとわたしは後悔するのだろう。だが、近頃の
苑上は苑上らしくはなかった。ずっとふさぎこんでいただろう。苑上には彼が必要
なのだね」
「・・・ええ」

苑上はうなずいて、兄の顔を見上げた。
身を切られるかのような切なげな表情をした安殿皇子は、苑上の頭をなでながら
言った。
「それなら、行かせないわけにはいかないね。わたしは、苑上にはいつまでも苑上
らしく自由でいてほしいのだ。幸せになるのだよ」

優しい言葉をかけられて、苑上は思わず兄の体にしがみついた。
苑上のことを思ってくれる兄と弟。
彼らとはおそらくもう一生会えないのだ。


  *


安殿皇子は自分の懐に顔をうずめて泣きじゃくる苑上の背をなでた。
ふと顔をあげると、阿高がなんとも言えない表情で安殿皇子と苑上を見ていた。

安殿皇子は阿高の顔を見て苦笑し、苑上の体をわが身から離した。
「もう行きなさい。内密に人払いはしておいたが、だれかに見つかってしまわないとも
かぎらないからね」

そして、阿高に向かって、金のつまった小さな布袋を差し出した。
「急なことで少ししか用意できなかったが、旅の足しにしてください。苑上を頼みます」
阿高は力強くうなずいた。
そして、布袋を受け取ると、苑上を抱き上げた。
「兄上・・・お元気で」
阿高の腕の中から苑上はそう挨拶したが、阿高がくるりと身を翻して駆け出したので、
もう安殿皇子の顔は見えなかった。


  *


藤太と広梨との待ち合わせ場所のすぐ近くの木陰で、阿高はふいに足をとめた。
「どうしたの、阿高」
苑上が阿高の腕の中から尋ねた。

「わたくしが重いから疲れてしまったのね。わたくしも自分で走ります」
「違う。そうじゃない」
阿高は首を振った。
苑上の体は軽く、抱えて走るのはたいした負担ではなかった。

ただ、阿高の胸になにかもやもやと巣食うものがあった。
考えなくても理由はすぐに思い当たった。
安殿と苑上の抱擁だ。
考えてみれば、阿高はまだ一度も苑上を抱きしめたことがないのだった。

そう思うと、いてもたってもいられなくて、阿高は苑上を人目につかない木陰におろした。
「阿高ったら。やっぱり重かったのでしょう」
そう言って微笑む苑上を、阿高は思い切り抱きしめた。
そして、苑上の長く下ろしたつややかな髪に顔をうずめた。
苑上の柔らかな衣は心地よく、息を吸い込むと今まで阿高がかいだこともないような
高価そうな香のよい匂いがした。

阿高の体を、今まで知らなかった何かが突き動かした。
気づくと、阿高は苑上に口づけていた。
苑上は驚いたようだったが、おそるおそる阿高の首に手をまわしてくれた。
それに勇気づけられて、阿高はさらに苑上に口づけた。

そして、唇を離すといった。
「会いたかったんだ」
思いが体からあふれだしそうな気がするのに、うまく言葉にならない。
阿高は同じ言葉を繰り返した。
「鈴に・・・鈴に会いたくてたまらなかったんだ」
苑上は何度もうなずき、目に涙をにじませて言った。
「わたくしも、とても会いたかったの、あなたに・・・」


どちらからともなく、もう一度口づけをしてから、阿高は笑って苑上を抱き上げた。
「今ごろきっと藤太たちがやきもきしてるな。急ぐからしっかりつかまってろよ」
「ええ」
苑上は微笑んで、阿高の首に腕をまわした。






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