あたその日記



番外 苑上の日記 内親王の部屋


安殿の部屋を出て回廊を歩いていた苑上は、回廊の隅で立ち止まった。
兄との会見が終わった今、また数日はあの内親王の部屋にこもらなくてはならない。
それが苑上の気を滅入らせていた。

阿高と最後に会った日から、もう何ヶ月も経った気がして、苑上は指を折り数えてみた。
実際にはまだ二十日も経っていない。

苑上はため息をついた。
阿高たちと別れてから、時が経つのがひどく遅く感じられた。
たった二十日でこれなのだから、この先の長さを思うと、気が遠くなる思いだった。

どうして阿高について行かなかったのだろうと後悔はすでに何度もしていた。
苑上が一緒に行きたいと言えば、阿高や藤太は、迷惑に思ったとしても、きっと拒みは
しなかただろう。

だが、苑上は阿高たちと別れて帰ってきた。内親王の部屋へ。

藤太と一緒に竹芝へ帰るのが阿高の何よりもの望みだった。
その阿高の望みを自分がぶち壊してはならない。
そう考えて、一緒に行きたいと言いたくなる気持ちを我慢して、我慢して、我慢して、
別れた。

その行動が間違っていたとは思わない。
けれど。

苑上はそっと顔に手をやった。
ぬれた感触がする。
いつのまにか涙がこぼれてしまっていたようだ。

阿高のことを考えると、自分でも気が付かないうちに泣いているのが、苑上の日常に
なっていた。
だから、他の人間がいるときには、できるだけ阿高のことを考えないように注意して
いなければならなかった。

(阿高は竹芝で、わたくしはこの内親王の部屋で、別々の人生を生きていく。でも、
阿高もわたくしも、同じ空の下で生きている。同じ月を、阿高も見ている。それだけでいい。
一緒にいた思い出を宝物にして、きっと生きていける)

苑上は自分に言い聞かせるように心の中でつぶやいた。
そう思わなくては、やりきれなかった。

(でも、もう一度阿高の声がききたい・・・)
それは苑上の中にいつもわきあがる願いだった。

もう会うことはできないのかもしれない。
でも、声がききたい。
もう一度、阿高の声がききたい。

阿高が柔らかな声音で「鈴」と呼んでくれた、あの声が、もう一度ききたい。

そう思ったら、また涙がこぼれた。
もう叶わないことだとわかっているのに、その願いを押しとどめることが、苑上には
できなかった。
抑えられない願いを持ってしまった苑上にできることと言えば、もう泣くことしかなかった。
苑上の体は、苑上の思考よりもそれを早く察するようで、だからいつも自分でも気が
付かないうちに涙がこぼれてしまうのだった。


苑上はため息をもうひとつつくと、あきらめて再び歩き始めた。
あたりはもう薄暗くなってきている。
部屋の灯りの下で、ゆっくり休みたかった。


部屋に戻ると、珍しく灯りが点されていなかった。
侍女がうっかりしているらしい。

苑上は火を点そうと燈台に近づいた。

そして、ふと顔を上げたとき、窓辺に人の影が見えた。
薄暗がりの中でも、その人と分かった。阿高だ。

自分は幻を見ているのだと、苑上は思った。
毎日毎日、とりつかれたように阿高のことばかり考えていたのだから、幻くらい見ても
おかしくないのかもしれない。

「やっぱり、とりつかれているのね」
苑上はそうつぶやきながら、幻が声を発してくれないものかと願った。
(もう一度阿高の声がきければ、わたくしはこれからも泣かずに生きていける)

苑上があらん限りの願いをこめて阿高の幻を見つめていると、幻はわずかに身じろぎ
して、そして、声を発した。

「鈴」

間違いなく、阿高の声だった。
幻の阿高は、柔らかな声音で、大事な人の名前を呼ぶように、苑上を呼んでいた。

苑上の願いがかなった。
そのはずだった。

だが、苑上は、人の願望が尽きないということを知った。
阿高に名前を呼ばれたとたん、阿高に会いたくてたまらなくなってしまったのだ。

苑上がうつむくと、幻は言った。
「鈴だろう。そこにいるのは」

阿高は、手を伸ばして、苑上の腕をつかんだ。
苑上は仰天した。
幻ではない、生身の阿高だ。
本物の阿高がこの部屋に、内親王の部屋にいる。
阿高は内親王の部屋に入ると罪になることを知っていて、それでも「言い忘れたことが
あるから」と、苑上のところにやってきたのだ。

阿高は、苑上が何を言っても、苑上の腕を放すことはなかった。
阿高はとっくに知っているのだ。

苑上が一緒に武蔵へ行きたいと言うと、阿高はずっとつかんだままだった苑上の腕を
そっと放して言った。
「決めた?」

苑上は微笑んだ。
涙がこぼれる。
でも、さっきの涙とは全く違う涙だ。

そして、苑上はつま先立つと、阿高の首に腕を回した。





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    *  コメント  *



池田綾子さんの「朝陽の中で」(『LunarSoup』収録)を聴いていたところ、
すごく苑上っぽいなあと感じました。

阿高と別れて、つらいけれどがんばって生きていこうとしている内親王苑上の
イメージでした。
すごく苑上が愛しくなって、このSSを書きました。

これを書くために薄紅のラストを読み返しましたが、荻原先生の文章大好きです。
ストーリーももちろん魅力ですが、字を目で追っているだけでもすごく満ち足りて
心地よくなります。大好きです。

私も二次創作で阿高や苑上を書かせていただいていますが、原作を読むと、
原作の阿高苑上が素敵すぎてどきどきします。
芸人がものまねをやっているときにご本人登場!みたいな気持ちです(笑)

薄紅天女、大好きですvv
宝物です。






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