あたその日記 お祭り 完結編



■阿高の日記45・懸念
at 2002 07/07 22:33 編集

祭りが近くなったので、どこでも寄るとさわるとその話だ。
でも、今日は嫌な話を聞いた。
真守が竹芝の女を誘うと言っているらしいのだ。
千種のことか・・・まさか鈴なのか。
どちらにしてもひと悶着ありそうだ。

鈴に、どう誘われても真守についていかないように言って
おかなければと思った・・・。


■苑上の日記45・懸念
at 2002 07/07 22:42 編集

今日、阿高が帰ってくるなり、
「真守について行ったらだめだぞ」
というので、びっくりしました。
よく聞くと、お祭りのことのようでした。

でも、ひとしきりだめだだめだと言ったあと、阿高は
はっとしたように黙り込みました。
そして、少し心配そうに言いました。
「今まできいてなかったけど・・・おれと祭りに
行ってくれないか?」
わたくしは思わず吹き出しました。
「そんな顔しなくても。わたくしが阿高以外のだれと
お祭りに行くというの?」
すると、阿高はにっこりして、わたくしを抱きしめて
くれました。

一緒に行ってくれると思っていたけれど、改めて阿高に
お祭りに誘ってもらえてうれしかったです。
 

■苑上の日記46・届け物
at 2002 07/13 14:46 編集

今日、千種さんとお庭の草むしりをしていたら、突然、
真守さんが訪ねてきました。
千種さんはとても驚いていました。

「真守じゃない!どうしてこんなところに。早く帰りなさいよ」
「まあそう言うなって」
真守さんはにこにこすると、手に持った包みを千種さんに
渡しました。
「これ、おまえの親から」
「うちの親が?」

千種さんはおそるおそる包みを開きました。
すると、中から出てきたのはとてもきれいな着物でした。
「祭りのときに着るといい」
真守さんが優しい声で言いました。
千種さんはうつむきながらつぶやきました。
「どうして、こんなものを・・・?」
「そりゃ、決まってるだろう」
真守さんは笑っていいました。
「許したってことさ」
「そうなの・・・?」

千種さんが目をうるませました。
「まあ、もともとおまえの親は甘いからな。おばさんも
はじめは半狂乱だったけど、最近じゃあ、竹芝のお屋形に
嫁ぐなんてさすが私の娘だなんてこっそり自慢してるぜ」

真守さんは千種さんの頭を軽く腕に抱きました。
「よかったな」
「うん・・・」
千種さんはしばらく泣きじゃくっていましたが、やがて
はればれとした表情で顔をあげました。
「ありがとう、真守。でも、早く帰ったほうがいいわ。
もうすぐ藤太たちが帰ってくるもの、気まずいでしょう」
「なんだよ、追っ払う気か。おれはまだ肝心の用が
済んでいないんだ」
真守さんは口をとがらせて言いました。
「千種の着物はついでだよ。おれは鈴を祭りに誘いに
きたんだ」

すると、さっきまで泣きじゃくっていたはずの千種さんが
目をつりあげました。
「まだそんなばかなこと言ってるの、あんたって子は!」
そして、わたくしの方を振り返って叫びました。
「鈴ちゃん逃げて!」
わたくしはどうしたらいいのかわからなくて、その場で
うろうろしてしまいました。
すると、真守さんは悪びれない笑顔で言いました。
「鈴。祭りに行こうぜ、おれと。絶対楽しいからさ」
わたくしは首を振りました。
「わたくしは阿高と行くの。もう約束もしているもの」
「そうか。それならそれでかまわないさ」
真守さんは気にした風もなく笑いました。
「阿高と行こうと誰と行こうとかまわないから、おれを
選んでくれよ」
「選ぶって?」

わたくしが聞き返したそのとき、背後から千種さんの
ものすごい声が聞えました。
「真守!あんたって子は!いいかげんにしなさい!
鈴ちゃんはね、あんたなんかには手も届かない子なの。
わかったらさっさと帰りなさい!」
真守さんは耳を押さえて顔をしかめていましたが、
しぶしぶうなずきました。
「わかったよ。帰るって。だからそうどならないでくれ」
そして、わたくしの手をとって言いました。
「じゃ、鈴、また祭りでな」
「やめなさいって言ってるでしょう!」
千種さんに腕をはたかれた真守さんは、わたくしから
手を離すと、くるりと身を翻して帰っていきました。


「鈴ちゃん、大丈夫だった?」
「ええ、手をとられただけだし」
すると、千種さんは苦笑しました。
「そうね。でも、阿高が知ったらきっと怒るわ」
「・・・これからはもっと気をつけます」
「そのほうがいいわ。真守にはなるべく近づかないようにね」
「はい」

真守さんはいい人だと思うのですが、阿高にも注意された
ことだし、気をつけようと思いました。
でも、今日は千種さんにご両親から素敵な着物が届いて
よかったなあと思いました。
千種さんはとてもうれしそうでした。
千種さんがご両親と仲直りできてよかったです。
 

■阿高の日記46・届け物
at 2002 07/14 11:41 編集

今日、日下部の親から千種に祭り用の着物が
届いたらしい。
鈴がうれしそうにそう言っていた。
真守が届けに来たというのは気に入らないが、
鈴が千種の喜びをわかちあっているので、
おれは黙ってうなずきながら聞いていた。
だが、ふと気づいた。
鈴は祭りの時に何を着るのだろう。

鈴に尋ねると、鈴は不思議そうに首をかしげた。
「この着物で行くつもりだけど?」
「それは普段着だろう」
確かに、それは趣味のいい仕立てもよい着物では
あったけれど、美郷姉のおふるの普段着だ。
「でも、わたくし、この着物がとても好きなの」
鈴はそう言ってにこにこと笑った。

おれは部屋を出て、親父様の部屋へ行った。
おれがわけを話すと、親父様はうなずいた。
「実はわたしもそう思って、美郷から鈴さんに言って
もらったんだよ。新しい着物をこしらえようと。
でも、鈴さんはもったいないからいいと言ってな」
親父さまはあごをなでながらつぶやいた。
「でも、どの家の娘もせいいっぱい着飾って出てくるんだ。
鈴さんだってきれいな着物が着たいだろうに」

「都にいたときにあきるほど着たからもういらないのかな」
おれがつぶやくと、親父様はおれの頭をはたいた。
「そんなわけがあるか。気をつかっているに決まって
いるだろう」
おれはしばらく考えて言った。
「じゃあ、前に都から送られてきた着物を着ればいい」
「それもないな」
親父様は重々しく首を振った。
「あれは皇太子が鈴さんに贈られたものだ。あまりに
上等すぎる。あんなものを着て祭りに行ったら、
それこそ浮いてしまう。鈴さんはとっくにそう承知して
いるようだったがな」
「じゃあ、どうすればいいんだ」
おれが頭を抱えると、親父様は笑った。
「それはおまえが考えなさい」

親父様の部屋を出て、おれは考えた。
どうすれば鈴に新しい着物を着せてやれるのだろうか。

「どうした阿高。めずらしく難しい顔をして」
藤太が通りかかったので、相談すると、藤太は笑った。
「着物のことは女に相談するのが一番だよ」

おれは美郷姉と千種を呼んで、鈴の着物のことを相談
してみた。
「あたしも気になってはいたのよね」
美郷姉はほおに手をあてて言った。
すると、千種がおそるおそる口を開いた。
「あ、あの、私が以前、自分用に織った反物があるの。
あれを鈴ちゃんの着物に仕立てたらどうかしら。色も
鈴ちゃんに似合うと思うし。私も縫うし、間に合わない
ところは美郷さんに手伝っていただいて」
「あら、いいわね」
美郷姉が乗ってきた。
「いいのか、千種?美郷姉も?」
おれが尋ねると、千種と美郷姉は笑ってうなずいた。
「そのかわり、藤太と二人で山で何か獲物をとってきて
くれるとうれしいわ」
「そうね、最近お肉を食べていないし。阿高、頼んだわよ」
美郷姉にばんと背中をたたかれて、おれは前に
つんのめった。
そんなおれの耳に、千種が笑いながらこっそりささやいた。
「最近藤太がね、阿高と狩りに行きたいってうるさくて
たまらないのよ。阿高がいつも鈴ちゃんと一緒だから、
あの人なりに少し遠慮しているみたい。連れ出して
もらえると助かるわ」


「どうだった?」
何も知らない藤太が笑顔で尋ねてきた。
「千種と美郷姉が鈴の着物を仕立ててくれるって。
でも、そのかわり山で何か獲物をとってこいと言われたよ。
藤太、一緒に行ってくれないか?」
「お、狩りか!いいぞ、ひさしぶりだな」
藤太がうれしそうに言った。

ともかく、鈴の着物のめどがたってよかった。
明日は藤太と狩りに行く。
たくさん獲物がとれるといいと思った・・・。


■綾音の日記・共同戦線
at 2002 08/09 19:50 編集

「綾音ちゃん」
遠慮がちな声に、あたしは振り返った。
そこにはほおを赤く染めた菜緒が立っていた。
「綾音ちゃんに聞きたいことがあるの」
菜緒はおずおずと言った。
「真守さんのことなんだけど…」
「兄さん?兄さんがどうかしたの?」
あたしは何のことかわからず、首をかしげた。

「あの、あのね、真守さんって・・・今度のお祭り、
だれと行くのかなって・・・」
これ以上ないというほど顔を赤くした菜緒を見て、
あたしは声をあげた。
「菜緒、まさかあんたの好きな人って、うちの兄さんなの?」
「あ、綾音ちゃん!そんな大声で言ったらみんなに
聞こえちゃう」
菜緒はあせってあたしの口をふさいだ。

真守兄さんが女の子に人気があるということは
知っていたけれど、まさか菜緒まで兄さんのことが
好きだとは思わなかったので、あたしは心底驚いた。
「兄さんなんかのどこがいいのよ」
「全部」
菜緒は即答した。
「兄さんってけんかっぱやいし」
「強くて素敵だわ」
「思い込み激しいし」
「真剣で一途なのよ」
「中身、子どもっぽいし」
「そこがいいのよ」
菜緒は夢見るように微笑んだ。
「それに、すごくかっこいいんだもの」
あたしはため息をついた。
妹のあたしには、兄さんのどこがかっこいいのか
よくわからなかった。
確かに、男の中では悪くない方だとは思う。
でも、竹芝の二連に比べたら。
「言っとくけど、兄さんは竹芝の二連によく負けてるのよ。
かっこ悪いわよ」
「そんなことない」
菜緒は首を振った。
「あたしから見たら、真守さんのほうがすっと素敵よ。
どうしてみんなが二連二連ってさわぐのかわからないわ」

あたしはぐったりした。
恋する乙女に何を言っても無駄だと悟ったのだ。

「だからね、綾音ちゃんにお願いがあるの。真守さんが
だれかとお祭りに行くつもりがあるのか教えてほしいのよ。
日下部の女の子はたいてい真守さん目当てだし、
負けたくないの」
菜緒の真剣な表情に、あたしは圧倒された。
どうしよう、兄さんがすでに竹芝の女の子をお祭りに
誘って断られたということを言うべきだろうか。

でも、菜緒の顔を見ていたら、とてもじゃないけれど、
そんなことは言えそうもなかった。
「今のところ、一緒に行く子はいないみたいよ」
「本当?」
菜緒が顔を輝かせた。
「ありがとう、綾音ちゃん!」

菜緒はうってかわってにこにこ顔になり、今度はあたしに
話をふってきた。
「綾音ちゃんは当然彼と一緒に行くんでしょう。いいわね」
「あいつとは別れたの」
「どうして!」
あたしはしぶしぶ答えた。
「浮気したのよ、あいつ」
「そ、そうなんだ・・・」
菜緒が気まずそうに言った。
「ごめんね、綾音ちゃん。あたし、浮かれちゃって」
「いいのよ」
あたしは髪をかきあげた。
「そのかわり、あたしは今回、祭りで一番のいい男を
つかまえるって決めてるの。だから菜緒に協力は
できないわ。
自分のことで精一杯なんだもの。
だから兄さんのことは菜緒が自分でがんばってね」
「うん」
菜緒はこくりとうなずいた。
「綾音ちゃんもがんばってね。綾音ちゃん、美人だし、
絶対うまくいくよ」
「ありがと」


菜緒が行ってしまったのを確認して、あたしは地面に
腰をおろした。
あぶないところだった。
菜緒に協力してくれなんて言われたら大変だ。
だって、あたしは今回兄さんと共同戦線を張るのだから。

あたしはお祭りで武蔵一のいい男、言わずと知れた
二連を狙っている。
もちろん、藤太は千種ねえさんの彼だから、さすがに
無理だ。
だから狙いは阿高。
そして、兄さんが狙っているのがその阿高の彼女だと
いう鈴という娘なのだ。
だから、あたしたちは協力することにしている。
あたしが阿高と、兄さんが鈴とうまくいくように。

鈴というのは都からきた娘らしい。
兄さんの話によると、すごい美人というわけではない
らしいから、あたしにも勝ち目があるかもしれない。
なんたって、あたしはここらでは美人で有名なのだもの。

ただ、あの兄さんが鈴というその娘にぞっこんになって
しまっているのが不思議だ。
兄さんはもともと千種ねえさんが好きで、他の女の子には
どんなにかわいい子でも目もくれなかったのに。
その兄さんを虜にするなんて、いったいどんな娘なのだろう。

とにかく、勝負はお祭りだ。
ひさしぶりに千種ねえさんにも会えそうだし、すごく楽しみだ。


■阿高の日記47・狩り
at 2002 08/10 23:37 編集

今日は藤太と狩りに行った。
天気も上々で、弓を持って野原を駆けるのは気持ちが
良かった。

おれと藤太は二人で山鳥を一羽ずつしとめた。
藤太は鹿や猪を獲りたかったとぶつぶつ言っていたけど、
美郷姉と千種は喜んでくれた。
鈴は少し恐ろしそうに死んだ鳥を見ていたけれど、
「鳥を射止めるなんて、二人ともすごいわ」
と微笑んでくれた。

帰ってから、藤太と庭ですもうの稽古をした。
途中で暑くなったので、上着を脱いで、下袴だけになって
何度も組んだ。
藤太とおれは力はほぼ互角だが、藤太の方が多少体格が
よいので少し不利だった。
祭りでもすもうの試合があるので、練習してもっとうまく
動けるようになろうと思った。


■苑上の日記47・狩り
at 2002 08/11 22:43 編集

今日、阿高は藤太と狩りに出かけました。

「そろそろお肉が食べたいと思っていたのよ」
阿高たちを見送りながら、美郷さんが笑いました。
千種さんも、なんだかうれしそうでした。

わたくしも、こちらに来る前はいつも鳥の子などを
食べていたけれど、最近はお魚が多かったので、
楽しみに思いました。

帰ってきた阿高と藤太が手に手に死んだ鳥を下げて
いるのを見たときには少し後ずさってしまったけれど、
鳥を矢で射落とすなんてすごいなと思いました。
わたくしがいままで食べていた鳥の子は、元の形が
わからないただのお肉でしかなかったけれど、
あれもだれかがこうやって狩りをしてとってきてくれた
ものだったのだなあと改めて気づきました。

鳥は、羽をむしったり血抜きをしなくてはならないので、
明日食べることになりました。
頭を切られて庭にぶらさがっている鳥はこわかったけれど、
こうやっておいしいお肉が食べられるのだなあと思い、
それをとってきてくれた阿高たちや、慣れた様子で鳥を
処理してくれた美郷さんはすごいなあと思いました。
わたくしはまだお魚もうまくさばけないのです。
千種さんも、まだ鳥の処理はできないそうで、早く鳥の
処理でもなんでもできるようになろうねと約束しました。


夕方、庭で何か声がすると思ったら、阿高と藤太が
すもうをとっていました。
狩りで疲れているはずなのに、よくそんな元気が
あるなあとびっくりしました。
阿高はがんばっていましたが、阿高の方が藤太よりも
体重が軽いので、押し合いでは苦戦していたようでした。

でも、阿高と藤太が仲良くすもうをしている姿は
とても和やかで、思わず微笑んでしまいました。

お天気がよくて洗濯物もよく乾いたし、今日は
とてもよい日だったなあと思いました。


■阿高の日記48・拍子
at 2002 08/11 22:56 編集

今日は、朝から祭りの準備のために、社の清掃に行った。
それから、若衆のみんなで祭りのために拍子打ちの
稽古をした。

拍子打ちというのは、楽人の演奏とは別に、若衆たちが
横木をばちで叩き、それに合わせてみなが歌い踊ると
いうものだ。
祭りをもりあげるためのものだが、今年は竹芝の若衆が
それを任されている。

はじめはばらばらだった音も、次第にそろいだし、
そのうちにみな、一糸乱れぬ撥さばきになった。
力強く拍子を刻む。
全員の音がそろうと、それはそれで馬に乗ったりする
のとはまた別の気持ち良さがあった。

今までの祭りではけんかくらいしかすることがなかった
けれど、今年は鈴がいる。
ますます祭りが楽しみになってきた。
鈴は祭りは初めてなのだから、なるべく鈴を楽しませて
やりたいと思った・・・。
 

■苑上の日記48・拍子
at 2002 08/12 23:35 編集

今日、洗濯をしに川に行ったら、女の子達が洗濯物を
わきに置いて、川辺で踊りの稽古をしていました。

舞いのような複雑な動きではないのですが、歌を歌い
ながら足を踏み鳴らしてみんなで踊っているのが楽しそう
だなあと思いました。
きくと、祭りのときにみなで踊るものだそうで、わたくしも
教えてもらって見よう見まねで踊ってみました。
はじめはぎこちなく動いていたのですが、だんだん慣れて
くると踊るのがとても楽しくなりました。
「お祭りのときは楽人さんたちもくるし、もっとにぎやかに
なるのよ」
と美郷さんが教えてくれました。
お祭りがいかに面白いか、みんながすごく楽しそうに
話してくれるので、わたくしも早くお祭りを見てみたく
なりました。
お祭りの日は晴れるとよいなあと思いました。


■阿高の日記49・ひさご
at 2002 08/14 23:08 編集

(注・ここでの「ひさご」とは、ひしゃくのような形を
したひょうたんのことです。更科日記中の言葉で、
薄紅天女のp240にも引用があります)


今日も祭りの準備にかりだされていた。
やぐらを組んだり、桟敷を作ったり、力仕事をさせられて、
くたくたになった。
帰ろうとすると、藤太がこっそり耳打ちしてきた。
「阿高、今年もあれが運ばれてきたらしいぞ」
おれはぱっと顔をあげた。
この時期、あれと言えば・・・。
おれの返事を待たずに、藤太は笑った。
「鈴に見せたいって言ってただろ。おれも今年は
千種と見るさ」
おれはうなずいて、屋形へ駆け戻った。

庭でちびクロたちと遊んでいた鈴の腕をつかんで
引き寄せた。
「どういたの、阿高」
そんな問いには笑顔で返して、おれは鈴の手を引いて
駆け出した。
鈴が転びそうになったので、途中から鈴を抱きかかえて
走った。

酒つぼは今年もいつもの場所に並んでいた。
藤太と発見した、不思議な光景。
ずっと鈴に見せたかったものだ。
鈴をみやこからさらってくるときにも、この光景を
見せたいと話したことがあった。

鈴はしばらく黙って風に揺れるひさごを見ていた。
そして、震える声で言った。
「わたくし、本当に竹芝にいるのね」
そう言って、目をうるませている。
「わたくしたちが今ここにいるのって、本当に
すごいことなのね」

鈴の言葉に、おれの脳裏に様々な記憶が次々と
浮かんでは消えた。

藤太と仲たがいして蝦夷のところへも行った。
リサトに出会った。
父のこと、母のことを知った。
だが、けものにもなった。
藤太たちがいなければ、決してここへは戻れなかった・・・。

都へも行った。
仲成に追われて山をさまよった。
そこで鈴に出会った。
もののけとも戦った。
鈴に請われて伊勢へも行った。
そして藤太が切られて死にかけた。
あのとき、もし藤太が死んだら、おれだけ竹芝に
戻るなんてことはできないと思った・・・。

帝に会った。
安殿皇子にも、会った・・・。
あのとき。
あのとき、「もどってきて」という声を聞かなかったら、
おれはこの世のものではなくなっていた。
戻ろうとすれば戻れるのだと、気づかせてくれたあの声。
あの声は鈴だ。
今ならそう確信できる。
「もどってきて、阿高。おいていかないで」
あのとき、鈴は確かにそう叫んでいた。
鈴がいなかったら、おれはここへは戻ってこられなかった・・・。

鈴や、藤太や、チキサニや、みんなのおかげでおれは
今ここにいる。

鈴だって、本来ならば、こんなところにいるような身分では
ない。
それなのに、すべてを捨てて、おれについてきてくれた。
鈴にそう言うと、
「違うわ。わたくしは竹芝にきてすべてを手に入れたの」
と笑うけれど、それでも、家族や都での生活や、たくさんの
ものを捨てさせてしまったと思う。

そんな風に考えると、おれと鈴がいまここにいることが、
ますます奇跡のように思える。

「わたくしたちが今ここにいるのって、とても
すごいことなのね」
鈴の言葉を頭の中で反芻して、おれはうなずいた。

夕日と、風にゆらめくひさごと、微笑む鈴。
そんな風景を見ながら、おれは本当に幸せだと、
心からそう思った・・・。
 

■苑上の日記49・ひさご
at 2002 08/14 23:14 編集

今日、阿高が息を切らして帰ってきたと思ったら、
わたくしの手をひっぱって外へ駆け出しました。
わたくしはわけがわからないながらも、阿高について
いきました。
わたくしがつまずいて転びそうになると、阿高は笑って、
わたくしを抱えて走ってくれました。

阿高が連れて行ってくれたのはたくさんのつぼが
並べて置いてある場所でした。
「みんな祭り用の酒つぼだよ」
阿高がそう言って笑いました。
数十の酒つぼは一列にずらりと並んでいて、とても
迫力がありました。
つぼのひとつひとつにはひしゃく代わりのひさごが
1本ずつ浮かんでいました。

「見ていてごらん」
阿高がそう言うので、じっと見ていると、ふいに西風が
吹きました。
そして。

「ほら」
笑いながら指さす阿高の指の先で、つぼに差し込まれた
たくさんのひさごの柄が一斉に東の方へゆらゆらと
動き出しました。

「おもしろいだろ」
阿高は笑いました。
「これを鈴に見せたかったんだ」
わたくしが黙っていると、阿高はあせったように
つぶやきました。
「ごめん、鈴にはこんなものつまらなかったかもしれないな」
「ううん」
わたくしは首を振りました。
「違うの」

わたくしはまわらない口をもどかしく思いながら言いました。
「これが阿高がわたくしに見せたいと言っていた光景
なのでしょう?都で、わたくしをさらいだしてくれたときに、
わたくしに見せたい光景があると、そう言っていたのが
これなのでしょう?」
「ああ」
阿高は微笑みました。

「子供のときに藤太と一緒に見て感動したんだ。
だから鈴にも見せたかった」
わたくしはうなずきました。
うなずきながら、目が少しうるんでしまいました。
「わたくし、本当に竹芝にいるのね。都でも伊勢でもない、
あなたの故郷に。あなたのお父さんやお母さんが
暮らしたいと願った武蔵の地に、本当にいるんだわ」
「ああ」
「わたくしたちが今ここにいるのって、とても
すごいことなのね」
「・・・そうだな」
阿高はちょっと思い出す表情になって、それから
わたくしを抱きしめてくれました。


それからしばらくの間、風に吹かれてあっちへこっちへ
動き回るひさごの様子を見物してからお屋形に戻りました。

ひさごが動くのは本当におもしろかったです。
阿高と一緒に竹芝にこられて、一緒にひさごを見られて、
わたくしは本当に幸せだなと思いました。


■阿高の日記50・休息
at 2002 09/16 23:23 編集

今日も祭りの準備に駆け回った。

帰ってくると鈴が縁側に座ってちびクロたちに何か
話しかけているところだった。


おれが黙って鈴の横に腰をおろすと、鈴ははじかれた
ように振り返った。
「阿高!いつ帰ってきたの?」
「ついさっき」
おれが答えると、鈴はほおを赤らめた。
「わたくしのひとり言、聞いた?」
「ちびクロに話しかけていたんだろう。内容は
聞こえなかったが」
おれがそう言うと、鈴はほっとしたようだった。
「そう。それならいいの」
「そんなふうに言われたら気になる。何を話していたんだ」
おれは尋ねたけれど、鈴は笑うだけで答えなかった。

二人で肩を並べて、ひさしぶりに鈴とたくさん話をした。
おれが祭りの準備の様子を話すと、鈴は目を
輝かせて聞いていた。

だが、しばらくすると、鈴がうつむきだした。
「どうした」
「大丈夫。ちょっと眠いだけ」
「それなら寝ればいい」
おれは自分のももを軽くたたいて見せた。
「枕にしていいから」
「うん・・・ありがとう」
鈴はそうつぶやくと、ずるずると崩れるように横になり、
おれのももに頭を預けた。
「少しだけ・・・お夕飯の準備の時間になったら起こして・・・」
「ああ」
おれが請合うと、鈴は安心したように眠ってしまった。

このところ鈴がよく働いてくれると美郷姉がほめて
いたのを思い出した。
がんばりすぎて少し疲れているのだろう。

おれは笑って眠っている鈴の頭をなでた。
ちびクロが近寄ってきて、おれと鈴の足元にうずくまった。

鈴をひざに抱えたまま、夕焼け空をながめながら、
おれはなんとなしに勾玉のことを思い出した。
リサトは藤太に「朝焼けの空のように輝く」と言ったらしい。
だが、おれが最後に勾玉を見たとき、勾玉は
安殿皇子の元で夕焼けの空の色で淡く淡く輝いて
いた気がする。
ちょうどこんな色だった、とおれはもう一度夕焼けを見た。
あれからまだそんなに経っていないのに、もうはるか
昔のことのような気がする。



はかまのすそをひっぱられてのぞきこむと、ちびクロが
遊んでほしそうにおれを見上げていた。
おれはちょっと考えてから、鈴を起こさないように
気をつけて、ちびクロの頭をなでてやった・・・。


■真守の日記・思惑
at 2002 10/08 23:00 編集

祭りが近づくにつれて、若衆はみんな血気盛んになる。
かくいうおれもその一人になるわけだが、おれは一応
日下部の若衆をたばねる立場なので、多少は
わきまえているつもりだ。

だが、そんなおれが冷静さを失うときがある。
竹芝の二連。
おれはあいつらがとにかく気に入らなかった。
お屋形の子という立場。
見目のよい顔に抜群の運動能力。
自然と人をひきつける。
だれにでも好かれ愛される。

おれはどちらかといえば不器用なほうだ。
初恋の人の千種には気持ちを伝えられないまま、
藤太に奪われた。
次に好きになったのは阿高の許婚の鈴だった。
本当に不器用以外のなにものでもない。

おれは将来日下部を担っていくものとしていくばくかの
責任は感じているし、両親や妹の綾音や従姉妹の
千種を守っていこうと思っていた。

頭もそう悪くないと思うし、運動能力もある方だ。
人望だってそれなりにはあると思う。
体力もあるし、仕事もきちんとするし、自分で言うのは
なんだが、日下部では一番の婿がねだと言われている。

素材だけならおれと二連にはそれほどの違いは
ないはずなのに。
なのに、おれと二連には決定的な違いがある。
人をひきつける力だ。
やつらはよくも悪くも人をひきつける。
おれにはそれがない。
それが悔しいから、おれはあいつらが嫌いなのだろう。
でも、嫌いだ嫌いだと言いつつ、結局ひきつけられて
いる気がするのは気のせいだろうか。


「真守さん、どうかしたんですかー?」
背後からきゃいきゃいと甲高い声がした。
振り返ると、綾音と年の近い村の娘たちが立っていた。

「すまない、ちょっと考え事をしていた。なにか用事か?」
おれが尋ねると、娘たちはさざめくように笑った。
やがて、一人の娘が上目づかいで微笑みながら
おれに言った。
「あの、真守さんってだれとお祭りに行くんですか?」
すると、堰を切ったように娘たちがいっせいに
しゃべり始めた。
「菜緒を断ったって本当ですか?」
「どうして断ったんですか?」
「だれと一緒に行くんですか?」
「私じゃだめですか?」

質問攻めだ。
おれは苦笑した。
「なんだ、おまえら、祭りはもうすぐそこだぞ。
まだ相手が決まっていないのか」
おれが茶化すと、娘たちは意味ありげに笑った。

「だって、ねぇ」
「真守さんが気をもたせるから」
まったくわけがわからない。
「なんだ、どういうことだ」
おれが言うと、娘たちは口をとがらせた。
「だって、真守さん今までは千種さん一筋だったでしょう?
でも、千種さんがお嫁に行っちゃったから、みんな
真守さんがどうするのか気になってるんです」
「なのに当の真守さんははっきりしないんですもの、
どうしても期待しちゃいますよ」

娘たちはおれが悪いのだといわんばかりの顔で
おれを見た。
「真守さんにはっきりしてもらわないと、私たち困るんです」
声をそろえて責め立てられて、おれは頭を抱えた。
すると、一番美人の娘が自信ありげに微笑んだ。
「つまり、真守さんが無理だということがはっきりすれば、
他の男をあたると、そういうことなんです」


今年は日下部のだれとも一緒にいくつもりはないのだ
というと、娘たちは潮がひくようにさっさと去っていった。
女の子というのは迫力のあるものだ。
いつもこんな目にあうのなら、二連もそれほど
うらやましい立場であるわけではないのかもしれない。
そんなことを思ってため息をついていると、すぐそばの
木陰から綾音がひょっこりと顔を出した。

「兄さん、大丈夫?」
「おまえ・・・見てたのか?いつから?」
「兄さんがみんなにとりかこまれて泡食ってるあたりから」
「見てたんなら助けろよ」
「あら、いいじゃない、たまには」
綾音はにっこりと笑った。
「初めて気づいたけど、客観的に見れば、兄さんって
案外かっこいいのね。がんばれば二連に対抗できるわよ。
みんなに感謝しなきゃ」
綾音はおれの袖をひいて微笑んだ。
綾音は日下部一の美少女と言われているだけあって、
わが妹ながらなかなかかわいらしい。
特に最近は祭りに向けて手入れに余念がないようだ。
長い髪もつやつやと輝いている。

「大丈夫だって。あたしが計画たててあげるから。
兄さんのかっこいいところをばっちり見せて、
あの子の心をつかむんでしょ」
「ああ・・・だけど、鈴がそう簡単に心変わりするとは
思えないんだが」
「兄さんがそんなことでどうするのよ。そんなことじゃ
あたしも困るんだからね。阿高なんて、ただでさえ難関
なんだから」
「わかったわかった」
おれがうなずくと、綾音は髪をかきあげて満足げに笑った。

正直、おれは本当に鈴が心変わりするなんて思っていない。
あの子はそういう子だろう。
もちろん阿高も。
そして・・・綾音も。
綾音は恋人とけんかして意地になっているだけだ。

そうわかっていてもおれが協力するといった理由は単純だ。
妹を思ってというのも少しはあるが、もしかしたら
祭りの日に少しでも鈴と一緒にすごせるかもしれないと、
そう思ったからだ。

「兄さん、頼むわよ!」
自信に満ちてきらきらと微笑む妹を目の前にしながら、
おれはあいまいに笑った・・・。


■阿高の日記51・晴れ着
at 2002 11/18 18:36 編集

明日は待ちに待った祭りだ。

夕飯を食ったあと、部屋に戻ろうとすると、千種と美郷姉が
おれを呼んだ。
「できたわよ、お待ちかねでしょう」
美郷姉が自信満々の笑顔で包みを差し出して言った。
「鈴ちゃんの晴れ着よ」
「できたのか!」
おれは驚いた。
もしかしたら出来上がりは明日の朝になるかもしれないと
聞いていたからだ。
「そうよ。千種ちゃんと一緒に夜なべ仕事でがんばった
んだから」
「ありがとう」
おれが笑ってそういうと、美郷姉はおれをせかした。
「ほら、早く見てみてちょうだいよ」

言われるままに包みを開くと、中から美しい模様の着物が
現れた。
赤い色の地に、桃色の糸が丁寧に織り込まれている。
鈴に似合いそうな着物だった。
「ありがとう。千種、美郷姉!」
おれが言うと、美郷姉はにこにこと笑った。
「千種ちゃんの織物、すごくきれいでね。裁つときに
ひさびさに緊張したわ。あんなに緊張したのは小牧姉の
花嫁衣装を仕立てたとき以来かもしれない」
美郷姉のうしろで微笑む千種の表情にも、控えめながら
誇らしさがあふれていた。

「二人とも本当にありがとう。このお礼は絶対するから」
「ええ、待ってるわ。また鳥を射止めてきてちょうだい」
美郷姉の言葉に、千種も笑ってうなずいた。
「わかったよ」
おれは、二人に約束した。
そして、着物を持って自分の部屋へと急いだ。

「鈴!」
息せき切ってかけこむと、部屋では鈴が寝巻きに着替え、
2枚しかない美郷姉のお下がりの着物を前に考え込んで
いるところだった。
鈴は振り返らずにつぶやいた。
「ねえ、阿高。明日のお祭りにはどちらの着物が
いいと思う?どちらも気に入っているから迷っているの」
おれは微笑んで鈴の目の前に新しい着物を広げた。
「鈴のだよ」
「え?」
鈴はわけがわからないという風に目を白黒させた。
「千種と美郷姉が作ってくれたんだ。明日の祭りに
着ていくといい」
「わたくしのなの?」
やっと理解したらしい鈴は、頬を真っ赤にして
顔を輝かせた。
そして、着物をじっと眺めた。
「千種が織った布らしい。仕立ては主に美郷姉が
してくれたようだよ」
おれが言うと、鈴ははじかれたように立ち上がった。
「わたくし、お礼を言ってくる!」
そう言って鈴は駆け出したが、ふいに戻ってくると、
おれに飛びついた。
「阿高が頼んでくれたのでしょう。ありがとう」
そして、おれのほおにひとつくちづけると、今度こそ
部屋を飛び出していった。

鈴が喜んでいるのを見るとおれまでうれしくなる。
明日の祭りが楽しみだ。


■苑上の日記51・晴れ着
at 2002 11/20 23:22 編集

今日、寝る前に明日着ていく着物を選んでいました。
わたくしは美郷さんにいただいた着物を2枚持っています。
どちらを着ていこうか迷っていると、突然阿高が
かけこんできました。
そして、わたくしの目の前に新しい着物を広げて
言いました。
「鈴のだよ」
一瞬、なんのことだかわからなかったけれど、
わかった瞬間うれしくてうれしくて、胸が熱くなりました。

とても見事な織りの布でできていて、すぐに千種さんが
織ったものだとわかりました。
すごくきれいでうれしかったです。
都にいたときには、頻繁に衣を新調していたけれど、
新しい着物がこんなにうれしいのは初めてでした。

美郷さんと千種さんにお礼を言いに行ったら、
やはり阿高が頼んでくれたのだということでした。
「まあ、頼まれなくてもやる気だったけれどね」
と美郷さんは笑っていました。
千種さんも、明日は実家のご両親から送って
いただいた新しい着物でお祭りに行くそうで、
一緒に行こうねと約束しました。
美郷さんも、明日はわたくしと千種さんを、
腕によりをかけて着付けてあげると約束して
くださいました。

わたくしが部屋に戻ると、
阿高は部屋の隅であぐらを組んで座っていました。
阿高はわたくしを見上げると、にっこり笑って、
「よかったな」
と言いました。

わたくしは新しい着物がうれしくてたまらなくて、
寝る直前まで胸に抱いたままでいました。
寝るときには枕元に置いておきました。
見るたびにうれしくて顔が笑ってしまいました。

明日はお祭り。
本当に楽しみです。


■52−1・祭り(阿高の日記)
at 2002 12/13 21:09 編集

朝、いつもより早く目が覚めた。

今日は祭りだ、と思うと、わくわくして、いてもたっても
いられなかった。

いつもより早く起きたのに、鈴はもういなかった。
そういえば、今日は朝早くから身支度をするのだと
言っていた。

おれが起きだすと、いつもは寝坊な藤太ももう起きていた。
「千種と鈴は奥で着替えているようだよ。おれたちも
早いとこ準備しよう」
「ああ」

とは言うものの、おれたちの準備なんて簡単なものだ。
祭りと同時に行われるすもう大会に備えて真新しい
ふんどしを締め、ちょっとましな着物を着るだけだ。

「悪いけど、今年の優勝はおれがいただくからな」
藤太がにやりと笑った。
「今年の褒賞は国司殿が奮発して美しい玉を出したらしい。
おれはまだ千種に何もやってないから。その玉を
千種にやりたいんだ」
「おれだって鈴に何もやっていないよ」
おれが言うと、藤太は笑った。
「お前はいいんだよ」
「なにがいいんだ」
おれが憤慨すると、藤太は口の端をつりあげた。
「おまえは鈴にいろんなものをやったよ。鈴もおまえに
いろんなものをくれただろう。千種もおれにいろんなものを
くれた。おれが死にかけたときにも助けてくれた。
でも、おれはまだなんにも千種にあげていないんだ」

おれは眉をしかめた。
「だからって勝ちは譲れないぞ」
「かまわないさ。すもうではおれのほうが強いからな」
「そんなことわかるもんか」
「わかるんだよ。すもうは体で有利不利が決まるからな。
おまえは不利だ」

おれは何も言い返せなくなって、黙り込んだ。
「いいじゃないか、おまえは神事の騎射でいいところを
見せれば。あっちのほうがよっぽど目をひく」

藤太がそう言ったとき、奥から美郷姉が出てきた。
「はい、お待ちどうさま」
美郷姉は奥に向かって手招きした。
「千種ちゃん、いらっしゃい」

美郷姉に呼ばれて、先に千種が姿を現した。

日下部の両親から送られてきたという晴れ着を着ている。
藤太は千種をきれいだとほめちぎった。

「鈴は?」
おれが尋ねると、美郷姉は笑った。
「鈴ちゃんはまだ中にいるわよ。さあ、どうぞ」

美郷姉は笑顔でそういうと、鼻歌を歌いながら
台所の方へ行ってしまった。
おれが首をかしげながら中に入ると、そこには
身支度のできた鈴が照れくさそうに立っていた。
薄緋色の着物を着て、赤い布をひれのように
肩から巻いている。
皇女のときからすれば比べ物にならないほどの
着物なのかもしれないが、鈴が着るとまるで
姫君のように見えると思った。

「変・・・かしら?」
おれが無言なので不安になったらしい鈴が
おそるおそるというように言った。
「いや・・・大丈夫だよ」
おれがそれだけ言ってまた黙り込むと、後ろから
ぱかっとしゃもじで頭を叩かれた。
「いってえ」
振り返れば、いなくなったと思っていた美郷が
眉をしかめて立っていた。
「あんたって子は、こんなにかわいい鈴ちゃんを
前にして言うことはそれしかないの。
藤太を見習えとはいわないけれど、もう少し言葉に
出して言わないと。鈴ちゃんが不安がっている
じゃないの。そんなことじゃ、他の男に鈴ちゃんを
持っていかれるわよ」
美郷姉は言いたいことだけ言うと、今度こそ足音も
高く去っていった。


おれは、美郷姉の最後の台詞に衝撃を受けていた。
脳裏によぎるのは、鈴に好意を持っているらしい
真守やむらの若衆の顔だ。

おれが蒼白になっていると、鈴がくすくす笑いながら
首を横に振った。
「そんな人いないから大丈夫よ」
鈴に否定されても、おれの不安は晴れなかった。
おれは後を振り返り、部屋の戸を閉めた。
そして鈴をぎゅっと抱きしめた。
鈴もにこっと笑って、おれの背中に手を回してくれた。
おれは鈴の顔を見つめた。
初めて会ったときから人形のようにかわいらしい
顔立ちの鈴だが、竹芝に来てからさらにきれいに
なった気がする。

しかも、今日は美郷に薄化粧をしてもらったらしく、
いつもにもまして、鈴の黒目がちな瞳や形の
いい唇がその存在を強調されていた。

おれは衝動的に、鈴のくちびるにくちづけた。
鈴の紅がとれてしまうかもしれないとか、
美郷姉に気付かれるかもしれないという考えも
ちらりと頭をよぎったが、そんな考えはおれの
動きを止めるにはいたらなかった。

鈴も同じことを考えたらしく、一瞬びっくりしたように
目を見開き、
「紅が・・・」
と口走ったが、やがて静かに目を閉じた。
おれは無心に鈴のくちびるを求めた。
鈴の小さくて柔らかいくちびるに、自分のくちびるを
くっつけているだけで、無上の喜びを感じることができた。

人はなぜくちびるをくっつけあうだけでこのような
満足感を得られるのだろうとおれは考えた。
いままで、どの女の子を見ても、くちびるに触れたいと
思うようなことはなかった。
なのに、どうしてか鈴にはそうしたくなるのだ。
それが好きだということなのだろうか。

鈴のことは間違いなく好きだし、大事だし、かわいいと
思っているが、なにぶん今まで女性を女性として好きに
なったことがなかったので、何もかもが初めてづくし
なのだ。

おれがいつも、あまりに涼しい顔を口付けだのなんだのを
しているので、鈴はだいぶ長いことおれが経験豊富
なのだと勘違いしていたらしい。
鈴が初めての彼女だと告げると、ずいぶん驚愕していた。


ひとしきり鈴にくちづけると、おれは顔を離した。
鈴も閉じていた目を開けた。
ほおが先ほどよりも上気して桃色になっている。
「鈴、かわいい」
おれが言うと、鈴は真っ赤になった。
「・・・阿高って、やっぱり藤太の甥っ子ね。
すごく素質があると思うもの」
なんの素質かはあえて聞かず、おれは祭に向かうべく
鈴を部屋から連れ出した。


屋形の外では、すっかり準備のできた藤太と千種が
美郷姉と話しながらおれたちを待っていた。
「おう、阿高。ずいぶん遅かったな。いったい何を
していたんだ」
藤太がにやにやした。
「べつに」
おれがごまかすと、美郷姉がおれのえりくびをつかんだ。
「千種ちゃんはともかく、鈴ちゃんはお祭りはまるっきり
初めてなんだからね、ちゃんと守りなさいよ。
毎年祭りじゃ騒ぎが起きるんだから。
まあ、もっとも、騒ぎの元はたいていあんたたちだったけど」

美郷姉はさんざんおれに説教をしたが、ひととおり
言い終わると、やっとおれたちを送り出してくれた。

鈴と手をつないで歩き出すと、鈴は顔中を笑顔に
して微笑んでいた。
「お祭り、楽しみね!わたくしは初めてだから少し
緊張するけれど」
「はぐれないようにな」
「うん」
鈴がおれの手を握り締めた。
おれも鈴の手を握り返して笑った。


屋形を出るときこそ一緒だった藤太と千種だが、
今回の祭りは二人にとって念願の祭りだということを
おれも鈴もわかっていたので、二人でしたい話も
あるだろうと、あえて藤太たちとは別の道から
行くことにした。

おれは鈴と手をつなぎ、田んぼ沿いのあぜ道を
歩いていった。
道ですれ違う男たちが鈴を振り返り凝視する。
そうしてしまう男たちの気持ちがわからなくもないほど、
今日の鈴は特にきれいだった。
むらの娘達と変わらない着物を着ているのに、
身にまとう空気がお姫様のようなのだ。
(実際皇女だったわけだが)

おれは誇らしい気持ちと、他の男にとられまいという
気持ちの両方で、鈴の手をぎゅっと握った。

そのときだった。
「きゃっ」
小さな叫び声とともに、ふいにつないだ手が強く引かれた。
鈴がよろめく。
反射的におれも手に力をいれた。
つないでいないほうの手で鈴の着物の袖もひっぱった。
体勢がくずれて、おれは鈴を抱えたまま地面に転がった。

一瞬後、事情がわかった。
鈴が道端の小石につまづいて転びかけたのだ。
おれは腕の中の鈴を確かめた。
大丈夫、無傷だ。
ほっとした。

おれがとっさに抱きかかえたので、鈴はけがこそ
しなかったが、せっかく美郷姉にきれいに着付けて
もらった着物は乱れてぐしゃぐしゃになり、髪に
つけていた花も飛んでしまった。

「阿高・・・ごめんなさい」
「おれはいいけど、気をつけろよ」
「うん。ごめんなさい・・・」

鈴はおれに謝り、少し泥のついてしまった着物に
目を落として悲鳴をあげた。
「着物が・・・」
鈴の目が申し訳なさそうにうるんだ。

乱れて後れ毛の散らばってしまった髪。
飛んでつぶれてしまった頭の花飾り。
少しだけ土汚れのついてしまった、着くずれた着物。
片方脱げたぞうり。
そして、涙。

鈴はそんな姿で立ちつくしていた。

「鈴」
おれが声をかけると、鈴ははっとしたように顔をあげた。
そして、あわてて身なりを整え始めた。
着物のほこりを払い、着くずれた着物を元に戻そうとする。
だが、なかなかうまくいかない。

おれは鈴の頭に手をおいた。
「おれがやる」
「え?」
驚いた顔の鈴の肩を抱いて、おれはすぐそばの
木陰に入った。

「おれが直す。いいか?」
おれの質問に鈴がこっくりうなずいた。

おれはさっそく鈴の帯を少しゆるめた。
着物の襟や丈をきちんとあわせてまた帯をしめてやる。
美郷姉のようなきれいな結び方はできなかったが、
見られる程度にはきちんと結んだ。

鈴の顔がみるみるほころんだ。
「ありがとう、阿高」
歩き出そうとする鈴をおれは押しとどめた。
「まだだよ」

鈴をその場に座らせて、今度は髪を整える。
手ぐしですいてやると、鈴の柔らかな髪はすぐに
きれいにまとまった。
おれはあたりを見回して、足元に咲いていた
小さな花をつんだ。
はじめに鈴が飾っていた花とは、大きさも美しさも
比較にはならない小花だったが、鈴の頭に飾ってやると、
鈴はうれしそうに笑った。

「よし、できた。じゃ、行くか」
「ええ」

そうして、おれたちはもう一度手をつないで、今度は
鈴が転ばないように気をつけながら祭りへと
向かったのだった。


祭の会場である氷川の社は近隣のむらびとたちで
ごったがえしていた。
もう祭りは始まろうとしているようで、神楽の音が
聞こえてくる。
そんな社の入り口で、藤太と千種が待っていた。

「やっときたか。早くしないと祭りが始まってしまう」
藤太が笑った。
「なんてったって、鈴には初めての祭りなんだからな。
せっかくの見ものを見逃す手はない」
「ああ、そうだな。全部、鈴に見せたい」
おれがいうと、鈴はわくわくした表情で尋ねた。
「お祭りって何をするの?」

「「それは見てのお楽しみ」」

おれと藤太の声がだぶる。

「もう、二人ともここのところずっとそればっかり」
千種がくすくす笑った。
「少しは教えてあげないと。鈴ちゃんだってわけが
わからなくなっちゃうわよ」

「それもそうだな」
千種の言葉に、藤太はあっさりうなずいた。
「うん」
おれもうなずく。

「ええと、まず神前奉納の流鏑馬だな。阿高が出る。
それから、奉納相撲。これはおれも阿高も、広も、
日下部のやつらも、みんな出るよ。むら対抗なんだ。
明るいうちはこんなもんか」
「暗くなったら何をするの?」
鈴の問いに藤太がにやっと笑った。
「踊るのさ」
「みんなが練習していた舞ね?」
「そう。まあ、舞なんていう上品なもんじゃないが。
鈴も踊るんだぞ」
「わたくしも?」
「もちろん。祭りで一番楽しいのはこれだからね」

藤太の言葉に鈴はさっと青ざめた。
「どうしよう、阿高。わたくし、舞の練習をあまりして
いないの。選ばれた女の子だけが踊るのかと
思いこんでいたわ」
おれのそでをつかんで不安そうな表情をしている鈴が
かわいくて、おれは我慢できず吹き出した。

「ひどい、阿高」
「そうじゃないんだ」
おれはあわてて笑いをひっこめた。
「大丈夫、心配ないさ」
「でも、振りがわからなくなったら・・・」
「わからなければ適当に踊ればいいのさ」
「適当に踊るって、どうやって?」
鈴は困りきった表情でつぶやいた。

「大丈夫よ。踊りの前に、私が少し教えてあげるから。
だから、ね?せっかくのお祭りなんだから、心配なんか
しないで思い切り楽しむのがいいわ」
千種の言葉に、鈴はほっとしたようにうなずいた。
顔にも赤みが戻る。

「ごめんなさい。わたくし、舞が苦手だったものだから、
ついくせで緊張してしまって」
「いや、中途半端に説明したおれも悪かったんだ」
藤太が頭をかいた。

おれも鈴の頭に手をおいて、いった。
「本当に、何も心配することはないよ。ただ・・・」
「なあに?」
「・・・迷子にだけはならないでくれ」
「もう、阿高ったら」
実際、何度も迷子になったことのある鈴は少し赤くなって
ふくれた。
そんなおれたちのやりとりに微笑みながら、
千種が言った。
「そろそろ行きましょう。もうすぐ始まる頃よ」
「お、そうだったな」
藤太がうなずいて、千種と社の方へ歩き出した。

おれは鈴ともう一度手をつないで、藤太と千種の後に
続いた・・・。


■52−2(お祭り)・苑上の日記
at 2003 11/03 00:35 編集


「あ」
千種さんが声をあげました。
「あそこにいるの、わたしの両親だわ」
「本当だ」
藤太はちょっと考えてからいいました。
「おれ、千種と一緒にちょっと挨拶してくるよ。
先に祭り見物でもしていてくれ」
「わかった。一応しばらくはここで待っているよ」
阿高が言うと、藤太と千種さんはわたくしにも
謝りながら行ってしまいました。

阿高とわたくしは、二人して大きな木の幹に背中を
あずけてもたれかかりました。
「藤太のやつ、千種の親父さんに認められたくて
必死なんだ」
阿高はつぶやきました。
「おれも鈴の親父さんには認めてもらいたかったと、
少し思うよ」
わたくしは微笑みました。
「父上は阿高を認めていらしたのだと思う。皇を
救ってくれたあなたを。だからこそ、仲成さまも
わたくしを連れ戻したりなさらなかったのだと思うの」
「そうかな?」
阿高は自信がなさそうに頭をかきました。
「ええ。絶対にそうよ」
わたくしが断言すると、阿高はうれしそうに笑いました。
「鈴が言うのなら、そう信じておくことにする」

そうして、わたくしと阿高がおしゃべりをしていると、
女の子が一人近づいてきました。
「あなたが阿高?」
女の子は阿高をじっと見つめていました。
きれいな女の子でした。
年はわたくしと同じか、少し上のようでした。
赤い着物を着て、大きな赤い花を頭に飾っています。
女の子は濃いまつげにふちどられた大きな黒目がちの
瞳で阿高を見上げていました。
「今日の流鏑馬神事に参加する阿高よね?」
「そうだけど。なにか?」
阿高のそっけない返事にも関わらず、その女の子は
満面の笑みで言いました。
「あたし、綾音というの。今日の流鏑馬に参加する人の
お世話をする係なの。一緒にきてもらえる?」
「もう?ずいぶん早くないか?」
「今年は手順が変わったので早いのよ」
その子はそう答えて、また華やかに微笑みました。
「さ、早く」
そう言って阿高のそでを引っ張ります。
阿高はわけがわからないという顔をしながらも、
うなずきました。
そして、わたくしの方を振り返り言いました。
「ごめん、鈴。流鏑馬が終わったらすぐに戻ってくるから。
それまで藤太たちと一緒にいてくれ」
「ええ、わたくしは大丈夫。心配しないで」
わたくしはそう答えたものの、その女の子に腕を
とられてひっぱっていかれる阿高を見たときには
なんだかさびしくなりました。

わたくしはひとまず藤太たちを探すことにしました。
わたくしがきょろきょろしていると、突然後ろから
肩をたたかれました。
振り返ると、そこには真守さんが立っていました。
真守さんはお祭り用らしい上等な着物を自然に
着崩してしていて、いかにも若衆をしきっている
感じの風格がありました。
真守さんの後ろには何人もの女の子たちがいました。
「真守さん、この子だれ?」
「あんた、日下部の子じゃないよね」
「もしかして、この子じゃない?噂の」
「ああ、阿高が都から連れてきたって言う」
「その割りにたいしたことないね」
「綾音の方がよっぽど美人じゃない」
あまり好意的でないたくさんの言葉に、わたくしは
少しこわくなりました。
すると、真守さんは表情を険しくして、女の子たちに
いいました。
「うるせえな。鈴は美人だよ。
鈴に変なことを言ったら許さないからな」
真守さんのあまりの剣幕に、女の子たちは
ぴたっと黙り込みました。
だれも言葉を発しなくなったかわりに、女の子たちの
中で一人だけはじめから黙り込んでいた子が
泣き出しました。
「菜緒、泣かないでよ」
他の女の子たちがその子をなぐさめました。
真守さんは、菜緒という子に対して、少し言葉を
やわらげて言いました。
「すまない、菜緒」
女の子たちは菜緒と呼ばれた子を囲むようにして、
どこかへ行ってしまいました。

わたくしは訳がわかりませんでした。
自分の肩にのせられた真守さんの腕をどけてから
尋ねました。
「あの子はどうして泣いていたの?
他の女の子はわたくしのことを怒っているようだった。
どうして?」
「あいつらはおれと祭りに行きたいと言ったんだ。
でも、おれは断った」
そして、真守さんはわたくしを正面から見ていいました。
「おれは鈴と祭りに行きたいからって」
「でも、わたくしは阿高と」
「知っているよ。でも、他の子とは行きたくなかったんだ」
「でも・・・」
わたくしが口ごもると、真守さんは微笑んで言いました。
「今日の着物も花飾りも、鈴によく似合っている。
すごくきれいだ。鈴は色が白いから、薄桃色がよく似合うな」
「あ、ありがとう」
あんまり真正面からほめられたので、なんだか
気恥ずかしくなってしまいました。
「わたくし、藤太と千種さんを探さないと」
この場から逃れたくてそういうと、真守さんは
少し表情を改めました。
「今は行かないほうがいい。さっき見かけたけれど、
千種の両親と4人でずいぶん真剣な話をしている
ようだったよ」
「そう・・・」
「鈴も初めての祭りで一人ぼっちじゃ心細いだろう。
千種たちが戻ってくるまで、おれも一緒に待っているよ」
「でも・・・」
「おれも千種に用事があるんだ。それに、変な男や
よっぱらいもいるから鈴一人じゃ危ない。
鈴に何かあったらおれが千種になぐられちまうよ」
真守さんはそう言って、にっこりと微笑みました。


「鈴は・・・おれのことどう思ってる?」
真守さんは、真顔でわたくしに言いました。
「どうって・・・」
わたくしが口ごもると、真守さんはわたくしに一歩
近づいてきました。
わたくしは思わず後ろに一歩下がろうとしましたが、
すぐ後ろに木があったのでそれ以上は下がることは
できませんでした。

「鈴」
真守さんがさらに近づいてきました。
わたくしは目を伏せ、なんとか真守さんとの距離を
保とうとしました。

「頼むよ、鈴。たまには目をそらさないで、おれを見てくれ。
見るだけでいいから」
真守さんに何度もそう請われて、わたくしは顔を
少しだけ上げました。

真守さんは、真剣な顔つきでこちらを見ていました。

形のいい眉と鼻。口元。

阿高や藤太を除けば、真守さんは姿のかなりよい
若者なのかもしれないと思いました。


「鈴」
真守さんは、わたくしにいいました。
「鈴は阿高の何なんだ?」
「わたくしは、阿高が好きなの」
答えになっていないとわかっていましたが、わたくしは
そういいました。
「それはもう知っている」
真守さんはそう言い放ちました。
「でも、鈴にはおれを好きになってほしいんだ、阿高よりも。
阿高にはまとわりつく女がたくさんいる。阿高は女の誘いを
はっきり断らずに逃げ回るだけだと聞く。きっと鈴はつらい
思いをするよ。でも、おれならそんな思いはさせない」
真守さんはそういうと、わたくしの右の方を指差しました。
「え?」
真守さんの指差したほうを見ると、流鏑馬の仕度を
整えている阿高が小さく見えました。
阿高のそばには赤い着物の女の子が付き添って
いるようでした。

(あの子だ・・・あのきれいな子)

わたくしは何かもやもやしたものを胸の奥に感じながら、
阿高の姿を目で追っていました。。


■52−3・阿高の日記・祭り
        
流鏑馬の準備におれを迎えにきたのは、赤い着物を
着た綾音という若い女だった。
おれの世話係だという。
流鏑馬の世話係は男だったはずだが、その男が体調を
崩したためとのことだった。
おれは特に興味もなかったため、何も言わなかった。

だが、その女が準備にかこつけてやたらとおれの体に
触ってくるのには閉口した。
「もうさわらないでくれないか。準備なら一人でもできる」
「あら」
女は意外とでも言う風に微笑んだ。
目鼻立ちのはっきりした若い女だ。
おれと同じくらいの年頃のようだ。
美人の部類に入るのだろうが、おれはとりたてて関心を
もてなかった。

「じゃまなんだ、悪いけど。もういいから」
おれは言ったが、女は気にした風もなかった。
「でも、これがあたしのお役目なんですもの。
途中でやめては上の人にしかられるわ」
そう言って女はおれの世話を焼き続けた。
おれはうんざりしたが、この準備の間だけだと
割り切って我慢することにした。

ようやく身支度ができ、馬に乗ろうとして観衆の方を
見ると、鈴が少し不安そうな顔でおれの隣にいる女を
見ていた。
おれはまとわりつく女を払いのけると、鈴に向かって
手を挙げて微笑んだ。
とたんに、鈴の前方にいた観衆の中から女達の
歓声が上がる。
(そっちじゃないんだが・・・)
おれは手を下ろした。
と同時にするどい視線を感じて振り返った。
観衆の中から、一人の男がおれをにらみつけていた。
もしかしたら鈴に思いを寄せる男の一人かもしれない。
おれはため息をついた。

しかも、よく見れば、ぎょっとすることに鈴の隣にいる
のは真守だった。
よく見ずに藤太か広だろうと思っていたのだが、あの
横顔はどう見ても真守だ。
鈴に向かって熱心に話しかけている。

おれはかっとした。
いますぐ真守を突き飛ばしに行きたい衝動にかられた。

だが、頭を振ってその考えを追い払った。
いま自分がすることは、的を射抜くことだ。
神事を成功させることだ。
そうすれば、家族も観衆も、そして何より鈴が喜ぶ。
鈴はこの騎射を何よりも楽しみにしていたのだから。

おれはひとりうなずいて、馬にまたがった。
空はよく晴れている。
社の木々の間から、明るい日が差し込む。
まだ少し冷たいけれど、春の匂いのする風が吹く。

おれは大きく息を吸い込んで、馬を駆った。

落ち着いて弓に矢をつがえ、的を射る。
ひとつ、ふたつ。そして、みっつ。

全ての的を射抜くと、観衆がどっとわいた。
鈴はどうしているかと見れば、鈴は満面の笑みを
浮かべておれをみつめていた。
本当にうれしそうに手をたたいている。
おれは鈴に向かって微笑んで見せた。
そして、鈴の横で仏頂面をしている真守をひとにらみ
してから馬を下りた。


流鏑馬神事を成功させたほうびとして、おれは
国司から酒をふるまわれていた。
酌をしているのはまたさっきの綾音という女だ。

おれはうんざりして酒を飲み干した。
早く鈴の元に帰りたかった。
「すみません、おれ、もう下がってもいいでしょうか」
おれが尋ねると、酌をしていた綾音がはっとしたように
顔をあげ、おれの袖をつかんだ。

おれはさりげなくその手を振り払うと、もう一度言った。
「人を待たせているので、もう下がらせて
いただきたいのですが」
すると、国司は思ったよりもあっさりとおれを
解放してくれた。
「気がきかずすまなかったな。早く皇女のところへ
行ってさしあげなくてはな」

事情を知っている国司は笑ってそう言うと、おれに
ほうびの品を渡すよう合図をした。
国司の部下が運んできたのは、小さな鈴のついた
紅い髪結紐だった。
それは、おれが事前に希望していたほうびの品だった。
「馬か剣でも所望するのかと思いきや、鈴のついた
髪結い紐とはな。だが、おぬしがあの方を『鈴』と
お呼びしていると聞き、合点がいったわい」
国司はにこにこと笑った。
「ありがとうございます」
おれはありがたくほうびの品を受け取ると、鈴の元へ
走った。

鈴と別れた木の下を目指して駆けていくと、鈴は
まだそこにいた。

だが、真守が相変わらず鈴の横に立っているのをみて、
おれはむっとした。
「おい」
おれが声をかけると、鈴に熱心に話しかけていた真守が
顔を上げた。
「もう戻ってきたのか。綾音のやつ、役に立たないな」
おれは返事をせずに、鈴を自分の腕の中に抱え込んだ。
「鈴にちょっかいを出さないでもらおうか」
「話をしていただけだろう。それをそんなに怒るなんて、
嫉妬深いことだな。そんなことでは鈴も息がつまって
しまうだろうに」
真守は苦笑しながらそう言うと、悠々とした足取りで
立ち去った。

「大丈夫だったか?」
おれが鈴の顔をのぞきこむと、鈴はこくんとうなずいた。
「あいつに何を言われた?」
「ええと・・・」
鈴は少しためらってから言った。
「踊りの相手に真守さんを選ぶようにと」
「だめだ」
おれがあわてて言うと、苑上は笑った。
「もちろんお断りしたわ。わたくしは阿高と踊っても
いいのでしょう?阿高には誘われていないけれど」

「もちろんだ」
言い切ってから、おれははっとした。
「おれは、鈴を踊りに誘っていなかったのか」
「お祭には誘ってくれたから、お祭にいくことが
一緒に踊ることだと思っていたのだけれど、違うのかしら」
おれはあわてた。
そして、居住まいを正して、言った。
「あらためて。今日の夜、おれと踊ってくれないか」
「ええ、喜んで」
鈴はにこにこしてうなずいた。

おれは人前だということを忘れ、思わず鈴を抱きしめた。
「あ、阿高・・・みんなが見ているわ」
鈴に言われて、おれはあわてて鈴の体を離した。

そして、握り締めていた髪結い紐の存在を思い出した。
「鈴。これ。流鏑馬のほうびの品にもらったんだ。
よければ使ってほしい」
「いいの?」
鈴は顔をほころばせた。
そして、今度は鈴のほうからおれに抱きついてきた。
「うれしい、阿高。わたくし、大事にするわね」
「ああ」

周囲の視線が気になりはしたものの、鈴の方から
阿高に抱きついてくれる貴重な機会をみすみす
棒に振るつもりはなかった。
鈴に思いを寄せる男たちへの牽制にもなるだろうと
少しずるいことも考えた。
おれは鈴の頭をなでてやった。


鈴の髪に髪結い紐をつけてやっていると、ようやく
藤太と千種が息を切らせて戻ってきた。
「いったいどこへ行っていたんだ」
おれが言うと、千種がすまなそうに言った。
「ごめんなさい。うちに両親と話をしていたのよ」
藤太も苦笑した。
「うちの千種を盗んでおいて、まだ他の娘と浮気を
するのかとののしられてね」
「藤太・・・・おまえ」
おれが藤太をにらむと、藤太はあわてて弁解した。
「違う、浮気なんてしていないよ。するわけがないだろう」
千種もうなずいた。
「どうやら真守がうちの両親に嘘を吹き込んだみたいなの。
わたしたちがじゃまで鈴ちゃんに近づけないから、
一芝居うったみたい」
「あいつがそこまでするほど鈴に入れ込んでいるとは
知らなかったな」
藤太がまた苦笑した。

「笑い事じゃない」
おれがむっとすると、藤太は言った。
「だからおれがいつも言っているだろう。早く・・・」
藤太の言葉をみなまで聞かず、おれは黙って鈴の手を
とった。
「鈴、行こう」
鈴はわけがわからないという顔をしながらもついてきた。

おれは鈴の手を引きながら、予定とは違った展開に
なったと密かに頭を悩ませていた。
本当は、夜、踊りも盛り上がったところで言うはず
だったのに。
でも、こうなったらもう言うしかない。

おれは鈴の手を引き、人気の少ない木陰へ入った。
そして、鈴を茂みの陰に座らせ、自分も座り込んだ。

鈴はわけがわからない展開に目を白黒させている。
「鈴」
「なあに」
おれがあまりに真剣な顔つきなので、鈴もつられて
真顔になっている。
「あの」
「ええ」
「だから」
「ええ」
「その」
「ええ」
鈴の真剣な目に押されて、おれは言葉につまった。
無言で鈴を見る。
鈴も真剣な顔つきでおれを見た。
そんな鈴はとてもかわいらしかった。

そう思うと同時に衝動を止められず、おれは鈴に
くちづけた。
鈴は、こんなに明るい場所、しかも屋外でそんなことを
されるとは夢にも思わなかったらしく、ずいぶん動転
したようだった。

「あ、阿高・・・だれかに見られたら」
「ごめん」
謝ってはみるものの、止まらなかった。
先ほど屋形であんなにたくさんくちづけたのに、
おれはまだ満足していない自分に気がついた。

鈴ははずかしそうにしていたが、やがておれにぎゅっと
しがみついて言った。
「阿高・・・大好き」
全身が幸福感に包まれるような気がして、おれは微笑んだ。
「おれも鈴が好きだよ」
そう言ったら、後に続く言葉はするりと飛び出した。
「だから鈴に嫁さんになってほしい。鈴と祝言をしたい」
「え」
鈴は予想もしていなかったらしい。
一瞬きょとんとしてから、みるみる真っ赤になった。
「だめかな」
おれがちょっとどぎまぎしながら尋ねると、鈴は
ぶんぶんと首を横に振った。
「まさか。すごくうれしい」

おれはあわてて言いつのった。
「もちろん、鈴を他の男にとられたくないからという
理由だけじゃなくて、鈴とずっと一緒にいたいから
祝言をしたいということなんだけど」
「阿高ったら」
鈴は笑った。
「わたくし、いま、すごくうれしいの。阿高と一緒に竹芝に
来ることができただけでも夢のようだったのに、
阿高と祝言ができるなんて、本当に夢じゃないかしらと
思うくらいよ」
「夢じゃないよ」
おれはそういうと、鈴にもうひとつくちづけた。

鈴の手を引いて社に戻ると、藤太と千種が同じ場所で
待っていた。
藤太はにやにやしながらおれに言った。
「首尾は?」
「まあ・・・上々」
おれは顔がゆるまないようにあえて仏頂面で答えた。
「そっか、よかったな」
藤太がおれの肩に右腕を回し、左手でおれの髪の毛を
ぐしゃぐしゃになでまわした。
「ちょ・・・やめろよ」
「いいからいいから、そんなに照れるな」
「照れてない」
「いやあ、あの小さかった甥っこの阿高も祝言か・・・
大きくなったな。叔父さんはうれしいよ」
「ばかいえ。おれと同じ年のくせに」

おれと藤太がいつものように取っ組み合っていると、
横で鈴と千種がおかしそうに笑っているのが聞こえた。


午後からは相撲神事が行われた。
相撲神事はむら対抗の勝ち抜きで行われる。
男たちがふんどしひとつになって全力で戦う、祭の花だ。

千種のために優勝してみせると息巻いていた藤太は、
まだ完全に元のとおりではない傷に響いてはいけない
ということで、本気を出さずに途中であっさりと負けていた。
藤太は無理をしてでも全力で勝負したかったようだが、
千種があまりに心配して止めるのでやめたという。

「まあ、千種にはいままでさんざん心配をかけたからな。
この傷を受けたときだって、千種がいなかったらきっと
死んでいた。その命の恩人の千種が今回だけは
やめてくれと頼むんだから、きいてやってもいいだろう。
そもそも、千種のために優勝しようと思っていたんだから、
千種の頼みをきかないんじゃ本末転倒だしな」
藤太は穏やかににこにこしてそう言うと、さっさと千種の
元へ戻っていった。

おれはといえば、意外にも順調に勝ち進んでいた。
相撲というのは体格のいい者の方が圧倒的に有利で、
細身の部類に入ってしまうおれには不利な組み合わせが
多かったが、正面から当たらずにかわす相撲で
うまく立ち回っていたのだ。

あれよあれよという間に、おれは決勝戦まで勝ち進んで
いた。
ここまで勝ち進むことは想定していなかったので、おれは
少し戸惑った。
だが、鈴が目をきらきらさせておれを見守っているのに
気がつき、気合を入れなおした。

決戦の相手は案の定、日下部の真守だった。
まず先に真守が土俵に立つと、観衆の中から「真守!」
「真守!」という大歓声が湧き起こった。
中には「真守さーん!」と叫ぶ女の声も多い。

おれにとってはいやな奴でしかない真守だが、
日下部では面倒見のよさと精悍な容貌で、
男女問わず人気者なのだと千種から聞いたことがある。
(おれには信じられなかったが)

いい機会だと思い、おれは真守を観察した。
長身でよく日に焼けている。
筋肉のしっかりついた体は強靭さを感じさせる。
おれの前では嫌な笑い方しかしない彼だが、
観衆に向ける笑顔は確かに温かかった。

(こんな顔もするのか・・・)
以前、騎射の勝負をしたときにはうろたえていた真守だが、
今日は堂々としている。
突発的な出来事には弱くても、準備をしていれば自信の
持てる性格なのかもしれない。

ひとしきり観察してから、おれも土俵に上がった。
「阿高!」「阿高!」とおれの名を呼ぶ歓声があがる。
ひときわ大きな歓声があがる方を見れば、最前列で
大盛り上がりしている美郷姉と豊高兄の姿が見えた。
神聖な神事でまた賭けでもしているのかもしれない。
そう思うとおかしくて、おれは微笑んだ。

「ずいぶん余裕だな」
おれが余裕の笑みを浮かべているようにでも見えたのか、
真守が言った。
「ここでお前をこてんぱんにしたら、鈴はお前を
見限るかもしれないな」
真守の言葉を、おれは鼻で笑い飛ばした。
「それはないね。だって、勝つのはおれだから」

互いが互いを挑発しながら見合う。

見合って見合って、ついに戦いの火蓋が切られた。
長身の体躯でつかみかかってくる真守を、おれは
かわした。

「逃げるな、阿高」
「ばかを言うなよ、なにが悲しくてあんたと抱き合わなきゃ
ならないんだ」
おれは真守をかわし続けた。
逃げているように見えてもかまわなかった。
真守に負けることだけは、絶対したくなかった。

真守が疲れたころを見計らって、おれは前に出た。
そして、突進してくる真守の腕をつかみ、真守自身の
勢いを利用して土俵の外に投げ飛ばした。

一瞬しんと静まり返った後、あたりは割れんばかりの
歓声でいっぱいになった。

おれは少し迷ってから、倒れている真守に手を差し出した。

真守も、おれの手をとるかどうか迷ったようだったが、
千種と鈴がいる方をちらりと見やってから、おれの
手をとった。

おれに助け起こされる真守に、観衆たちはさらに声を
張り上げていた。
正統派の相撲で強さを示した真守と、自分よりも
体格のいい相手を倒したおれと、両方への賛辞が
叫ばれているようだった。

大歓声の中、おれは周囲に聞こえない程度の声で
真守に言った。
「認めるよ。あんたは強い。だけど、だからこそ、
あんたには鈴は渡さない」
すると、真守も苦笑した。
「おれも認める。おまえは強い。いままでいろいろ
すまなかったな」
真守に謝られるとは思わず、おれが驚いていると、
真守はさらに言った。
「元から、鈴をおまえから奪えるなんて思っていなかった。
ただ、困らせてやりたかったんだ。
大事な千種を奪った竹芝が憎かった。
特におまえは恵まれすぎていたから特にな。
男前で弓も馬も得意で、あげくの果てには
あんなにかわいい皇女様を都からもらってきただなんて、
嫉まずにいられるわけがないだろう」

そう言われると真守の言うことももっともな気がして、
おれはだまりこんだ。
確かに、鈴を得ることができたのはおれにとって
僥倖以外の何物でもなかった。
鈴を得られなかったら、今でも人を愛せずにいたかも
しれない。
「でも、鈴はやれない」
「わかっているさ」
真守は初めておれの前でくったくのない笑顔を見せた。
「あの皇女様はおまえにべたぼれだ。
おれの出る幕なんかない。そんなこともわからずに
やきもきしているのはおまえくらいだ。本当にばかだな」
「ばかとはなんだ」
だが、おれの言葉はそれ以上続かなかった。
真守がおれと肩を組んだのだ。
そんなおれたちの姿に、観衆はさらに沸いた。

「おれは正直嫉妬したぞ」
藤太が口をとがらせてそう言うのを、おれは眉をしかめて
一蹴した。
「ばかいえ、なんでそうなる」
「だって、おまえと真守が本当に親しげでさ」
藤太はすねたように言った。
「おまえと真守、いつの間にそんなに仲良くなったんだ」
「仲良くなんてない」
「まあ、千種は喜んでいたからいいけどな」
「だから、聞けって」
「なんてな、わかってるって」
藤太は神妙な表情を一変させ、いつものにやにや顔に
戻った。
「鈴はおれのだ手を出すな!って話がついたんだろ。
わかってるって」
「う・・・」
図星で何も言えなくなったおれを残し、藤太は千種の
腕をとった。

あたりはもうすっかり暗くなっている。

「そろそろ踊りが始まってるみたいだな。行くか」
踊りの輪の中に消えていく二人を見送ってから、
おれも鈴の手をとった。
「騎射をしている阿高も、相撲をしている阿高も、
どちらもすごく格好よかった」
鈴がきらきらした目でおれを見る。

その目は、むらの娘達がおれを見るときの目に似ていた。
おれはそんな娘たちの目が、気味が悪くて嫌いだった。
だが。
むらの娘達の目はうっとおしいとしか思えず避けて
いたのに、鈴の目はなぜだか心地よい。
なぜだろうかと考えて、おれは苦笑した。
理由など決まっている、それが鈴だからだ。

「おれたちも踊りに行くか」
「ええ」

鈴はにっこり微笑んで、差し出したおれの手をとった。

踊りの輪の中でも鈴は目立っていた。
舞は苦手と言っていたが、むらむすめたちの踊りに
比べて、鈴の動きは目を見張るほど優美だった。
同じ踊りを踊っているはずなのに、鈴のまわりだけ
空気が違う。
すっと立った姿勢のよい立ち姿、柳のように柔らかく
動く腕、人を魅了する首の動き、優雅な足さばき、
踊るように舞うつややかな髪。
まわりの男たちも鈴の踊りに目が釘付けで、
それぞれ連れの女にどやされていた。

おれはこれ以上鈴を思う男が増えてはかなわないと、
早々に鈴の手を引いて踊りの輪を抜けることにした。

輪を抜けるときに、見覚えのある赤い着物が目に入った。

やたらとおれにまとわりついていた綾音という女だ。
綾音は、連れの男と一緒に踊りの輪から出てきた。
連れの男の顔をみると、昼間おれをにらみつけていた
男だった。
どうやら綾音の恋人だったようだ。
どうりでおれをにらむわけだ。

鈴を思う男ではなかったことにおれがほっとしていると、
綾音はにっこり笑った。
「あたし、日下部の真守の妹なの。こっちはあたしの彼。
今日は兄さんに頼まれて、阿高にくっついていたの。
阿高と鈴さんのじゃまをしようと思って。
でも、兄さんは鈴さんをあきらめたみたいだし、
もうやめるわ。だから、あたしは阿高に気があるわけじゃ
ないの、そこのところ誤解しないでね」

おれがあきれて何も言わずにいると、綾音は鈴にも
すまなそうに微笑みかけた。

「鈴さんにもいやな思いをさせてごめんなさい。
でも、兄さんったらあれでもあなたのことを本当に
好きだったのよ。千種姉さん以外できっと初めて
好きになった女の子だったのね。
だから協力してあげたかったんだけど、
やっぱり無理だったみたいね。
迷惑をかけて本当にごめんなさいね」
「いえ・・・」
鈴が首を振ると、綾音はほっとしたようだった。
そして、ひらひらと手を振ると、男と一緒にまた
踊りの輪の中に戻って行った。

おれは肩をすくめた。
「まったく、とんでもない兄妹だな」
「でも、二人とも悪い人ではないみたい」
鈴はそう言ってくすくす笑った。
鈴にかかると悪い人はいなくなってしまうと思いながら、
おれも笑った。


いったん屋形に帰ってから、おれはもう一度鈴を
外に連れ出した。
「どこへ行くの」
「うん」
おれははっきりと返事をせず、鈴の手を引いて
離れへ向かった。

「ここは・・・」
「うん、おれと鈴のために親父様がくれた離れだ。
ここで鈴と一緒に暮らせるように、いま少しずつ
修理をしている」
「阿高・・・」
鈴はおれが何を言いたいのかわかったようだった。
目に涙をためている。
「鈴も家事がうまくなったし、おれも来年には馬がもらえる。
もう一人前だ。だから、祝言を挙げたらここで一緒に
暮らさないか。みやこの鈴の部屋に比べたら馬小屋
みたいなものだけど、鈴さえよければずっとここで、一緒に」
「ええ・・・」
鈴は大きな目から涙をぽろぽろこぼしてうなずいた。
そんな姿もひどくかわいらしい。

「・・・阿高」
鈴はおれの肩に顔を埋めた。
「わたくし、うれしい。こんなにうれしいことがこの世に
あるだなんて知らなかった。わたくし、いままで生きていて
よかった」
おれは笑って鈴の頭をなでた。
「おれも生きていてよかったよ。鈴が呼び戻して
くれなければ、きっと安殿皇子と一緒に死んでいた。
鈴がいなければ、こんないいことがあるなんて知らずに
死んでいた。鈴は命の恩人だ」
「違うの」
鈴は首を振った。
「わたくしは命の恩人などではないの。わたくしはただ
わがままだっただけ。阿高に置いていかれたくなかった
だけ。阿高と一緒にいたかっただけなの」

鈴の言葉はいつも、おれの心に灯を燈してくれる。
おれは胸がじんわりあたたかくなるのを感じながら言った。
「そう思ってくれてありがとう」
おれは微笑んだ。
「鈴がそう思ってくれたから、そう言ってくれたから、
帰ってくることができた。だから、これからも鈴には
一緒にいてほしい。ずっと。ずっと」
「わたくしだって」
鈴の声がかすれた。
「阿高と一緒にいることがわたくしの一番の願いだったの。
それが叶って、こんなにうれしいことはないわ」
おれは鈴を抱きしめた。
そして、涙で濡れた鈴のほほにくちづけた。
「いやだ、わたくしったら、化粧が落ちてしまって
いないかしら」
あわてておれから離れようとする鈴を逃がさないように、
おれは鈴を抱きしめる腕に力を入れて言った。
「大丈夫、かわいいよ」
「阿高ったら、ちゃんと見ていないでしょう」
鈴が少し顔を赤らめて文句を言う。
そんな鈴の言葉を封じるべく、おれは鈴のくちびるに
そっとくちづけた。


(終)






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